礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年6月30日 説教アウトライン】 「王である祭司として真実に生きる」 歴代誌第二 26:1~23

ウジヤ王の在位は紀元前787年~735年の52年間。南王国の繁栄の時代の王であった。

Ⅰ 主なる神を認め、求め、崇めるとき(26:5)
5節。若き日、彼は神を認め、神を求めた。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6、新改訳第三版)。「ここにも主が共にいてくださる」と「認め」、「これからすることを御手に委ねます。導き、守り、教えてください。祝福してください。あなたと親しく出会わせてください」と「求め」、「あなたはすばらし方です」と「崇める」。
その結果、神が栄えさせてくださった。彼を通してご自身の栄光を現わされた。

Ⅱ すばらしい助け手に感謝する(26:5,7,11~13)
5,7,11~13節。助け手の存在を忘れてはならない。
ウジヤ王には信仰生活の助け手ゼカリヤがいた(5)。
また、「神は彼を助けて」くださった。その結果、ウジヤは「その勢力が並みはずれて強くなった」(8)。
さらに、11~13節。大勢の人々が「王を助けて敵に当たる強力な戦闘部隊」として働いた。
「こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである」(15)。
ウジヤは神の助けがあった。そして、良い助け手たちに恵まれた。私たちも助け手である神の存在に目を向け、神に感謝しよう。そして、神が置いてくださった人々、助け手たちの存在を覚え、感謝し、祝福を祈ろう。

Ⅲ 高ぶりは禁物(26:16~23)
16~23節。高ぶりは禁物。
箴言11:2、「主を畏れること」こそ知恵にほかならない(箴言1:7,9:10)。
ウジヤは王であったが、祭司ではなかった。しかし、いつわりの万能感を持ち、祭司のする主の前で香をたくこともやろうとした。彼は主に打たれ、ツァラアトに冒され、死ぬ日まで隔離された。名前だけの王となって、息子のヨタムが摂政となる。
「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴言11:2)。

ウジヤは「王である祭司」であろうとした。しかし、旧約の時代においては、王であっても祭司とはなれない。祭司だけが正式な礼拝(神殿礼拝)の専門職であった。
しかし、イエスの十字架と復活によって、いまやキリスト者はみな祭司とされている。「万人祭司」はプロテスタント宗教改革の根本原理の一つである。しかも、「王である祭司」である(Ⅰペテロ2:9)。
旧約時代、祭司しかできなかった正式礼拝が、私たち皆ができるようになった。私たちは旧約の祭司と同じような心で礼拝すべき。光栄を感じながら、プロ意識をもって、真剣に礼拝すべきである。
しかも、私たちキリスト者は「王」でもある。王は暴君ではない。自分をしっかり治めること、そこから、家庭、教会・・・納めていく。また、申命記17:18~20にあるように、王はみことばをいつも手元に置き、主を畏れ、主の教えを守り行い、高ぶらないようにするのである。
私たちは、まことの「王である祭司」イエス様に信頼し、まことの「王である祭司」イエス様を心の王座に迎えて、王である祭司として生かしていただこう。主イエスをいよいよ仰ぎたい。