礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2019年6月9日】   「我は聖霊を信ず」     使徒の働き 2:1~47

本日は聖霊降臨日。「我は聖霊を信ず」との信仰告白を新たにし、聖霊を慕い求めたい。 聖霊は永遠からおられる神(三位一体の神の第三位格)。世界に満ちておられ、いのちの造り、支え、与える方(創世記1:2、詩篇104:30)。真理の認識を成立させる霊(ヨハネ14:17)。しかし、天に上げられたキリストに代わってくだられ、キリスト者の中に住み(ローマ8:15,26)、しかも、いつも新しく来てくださる方(使徒4:31)。
五旬節(ペンテコステ)の日、聖霊降臨を祈り待望していた120名の者たちは聖霊を注ぎ満たされ、いろいろな国ことばで「神の大きなみわざ」(イエスの十字架と復活と昇天、それらのイエスの御業のゆえに信じる者に与えられる救い。すなわち、福音)を語り出した。

「終わりの日に、わたしは すべての人にわたしの霊を注ぐ。…すると彼らは預言する」(17~18)。
聖霊を注がれると預言する(18)。「預言」は神のことばを預かり語ること。そして、神のことばの中心である福音を語ること。
説教は預言である(Ⅰコリント14章)。みことばを教えること(CS、教育)、また、預言のことばである説教を真剣に聞くという礼拝行為も一種の預言である(Ⅰコリント14:24「みなが預言をするなら」)。互いに福音と福音の恵みを分かち合うことも預言である。賛美することも預言の一つである(Ⅰサムエル10:5)。
預言には広い意味があるが、どんな場合も、聖霊を注がれ、聖霊に満たされて、語り、聞き、歌わなければ、力も恵みもインパクトもない。預言とは恵みの福音を隣人に、自分に、主にある兄弟姉妹に、そして、神に向かって語ること。「我は聖霊を信ず」、「聖霊よ、来てください」。 

聖霊がペテロのことば(証し、説教)を福音のことばとして形作り、語らせた。同じ聖霊が聞いた人々の心の底にペテロのことばを届け、心を動かした。「『このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。人々はこれを聞いて心刺され、…『どうしたらよいのでしょうか』と言った」(36~37)。
ペテロは答える。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38)。悔い改めて(“方向転換”。考えを変え、罪を認め、新たに神に向かって歩み出す)、イエスを信じ、イエスの名を呼んで(22:16)救われ(罪の赦しと永遠のいのちを受け)、その証しとしてバプテスマを受け、キリストのからだ(教会)に加えられ、新しい神の民である教会家族の大切なひとりとして、聖霊に導かれる信仰生活へと進みなさい、と。
聖霊は人々の中に、ペテロの福音の招きに対する応答を作り出し、その日、3000人がイエスを信じてバプテスマを受け、教会に加えられ、聖霊による歩みを始めた。

「信仰によって約束の御霊(聖霊)を受ける」(ガラテヤ3:2,14)。神に向かって方向転換し、イエスを信じた者は、当然のこととしてバプテスマを受けてキリストのからだである教会に加わる。聖霊は教会生活の中でこそ生き生きと働く。キリストのからだなる教会、聖徒の交わりの中で、礼拝し、聖餐にあずかり、愛し愛され、祈り祈られ、気遣い気遣われ、献げ、仕え仕えられ、互いに語り、役割を担い、ともに福音を伝え、時に葛藤し、悩み苦しみ…、そこでこそ、聖霊の臨在と力とを知るのである。
聖霊は教会と信仰共同体、そして、キリスト者を形作る(41~47)。

「我は聖霊を信ず」(使徒信条)と心から告白したい。そして、「来てください。造り主なる聖霊よ」(古代教会からの祈り)と祈り続けたい。