礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2019年1月27日 説教アウトライン】   「選ばれたダビデ」  サムエル記第一 16:1~23

サムエルは主の命令によって密かにベツレヘムに行き、主の示しに従ってエッサイの子ダビデに油を注いだ。ダビデは王となるために密かに油を注がれた。

Ⅰ 「わたしのために王を見出した」(16:1)
王は「主のために」立てられる。王は自分のために王をやってはならない。王は人々を私物化して支配してはならない。私たちはみな「主のために」「見出された」者。主のために立てられていることを忘れてはならない。
たとえば私(遠藤)なら、牧師として、夫として、父として、兄弟として、隣人として、主のために立てられている。私たちの回りの人たちは、まず主が愛をもってその人たちを支配し、ケアし、仕えておられる方々である。「主よ。私もあなたと一緒に力合わせ、仕えさせていただきます」という心で、回りの人愛をもって関わり、ケアし、仕えて行く。
私たちは「主のために」見出された者なのである。

Ⅱ 「人はうわべを見るが、主は心を見る」(16:7)
エッサイの子のうち上の7人の息子たちが呼ばれた。8番目の息子ダビデはお呼びがかからなかった。しかし、上の7人の息子の中には王として選ばれた者はいなかった。
主は人が見るようには見ない。「人はうわべを見るが、主は心を見る」。たしかに、12節を見るとダビデは「うわべ」(直訳は「見目」)も良かった。「血色がよく、目が美しく、姿も立派だった」(12)。しかし、主は心(内心)をご覧になった。こころの低さ、心の貧しさ(マタイ5:3)を。自分には頼れない、主にしか頼れないという心の貧しさ、それがゆえに主に期待するまっすぐな神への信仰・神信頼、ここに主は注目されたのである。この神への信頼はダビデの目の美しさに現れていたと言えよう。「からだの明かりは目です」(マタイ6:22)。
主の選びの根拠となるようなものは私たちのうちにはない(Ⅰコリント1:26-29,31)。もしあるとすれば、私が取るに足りないものであること、ただ主の憐れみ、そして、私たちの弱さを通してご自身の栄光をあらわそうとする主の熱心である。だから、主の前には心貧しくあろう。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)。

Ⅲ 「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(16:13)
ダビデは王となるべく油注ぎを受けた。油は聖霊を象徴する。彼にはこのときから聖霊が激しく臨んだ。現実は依然としてサウルが王であったが、ダビデは王となるべく準備をさせられた。ダビデを王として整えるために聖霊は激しく彼に臨んだ。すべてがハッピーだったのではない。むしろ大変なことばかりであった。
イエスも洗礼を受け、聖霊を注がれた。イエスは「キリスト」。キリストとは「油注がれた者」という意味である。旧約時代、油注ぎを受けて職に就いたのは預言者と祭司と王であった。イエスはまことの預言者、祭司、王として、「聖霊を無限に与えられた」(ヨハネ3:34)救い主であられる。そして、公生涯の初めに、聖霊がイエスを荒野に追いやり、サタンの誘惑にさらし、イエスを試みた。聖霊がイエスを訓練した。
同じ聖霊がダビデを悪霊と対峙させ(14~)、周囲との激しい戦いに合わせ、サウルの妬みを買う逃亡生活へと押しやった。聖霊が激しく臨んで彼を訓練したのである。
私たちキリスト者もイエスの御霊(聖霊)を注がれ、訓練され、祝福され、小さなキリスト、王、祭司、預言者としての使命に生かされている。聖霊は私たちにも激しく臨んで、私たちを小さなキリストとして生かそうとしておられる。

主が大きく用いてくださる日に備え、心を大切にしたい。心を主に真っすぐ向け、心の奥まで主に開き、心で主の語りかけを聴き、心から主の恵みを受けとめ、心から主を信頼し、愛する修練をさせていただこう。日々の静まり、みことばと祈りの時を重んじたい。
 
【祈り
主なる神。取るに足りない私に、あなたは最高のもの、主イエスと聖霊をくださいます。心からお受けいたします。そして、私も信仰の大先輩のように告白します。「私の心をあなたにささげます、主よ。速やかにかつ真心を込めて」(ジャン・カルヴァン)。