礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2019年1月20日 説教アウトライン】    「天が開けて」   ヨハネの福音書 1:43~51

イエスの公生涯の初週の出来事(1:19~2:11)。第五日目、さらにピリポとナタナエル(バルトロマイ、マルコ3:18))が新しい時代の「最初のキリスト教会」に加えられる。

「来て、見なさい」(1:43~46)
「わたしに従って来なさい」(43)。ピリポはイエスから「弟子」(キリスト者)としての召しと、同時に、「使徒」(フルタイムの働き人)としての召しも受けた。しかも、イエス自ら直接ピリポに迫って来られた。
ピリポはキリストに出会った喜びと感動にあふれ、ナタナエルに証しする。その方に「会った(発見した)」と(45)。しかも「私たちは」と言って、教会共同体の一員、キリストの大使として証しした。メシアの到来を心待ちにしていたナタナエルも心踊った。しかし、その方がナザレの人だと聞いて、「(無名の寒村)ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と失望と冷笑をあらわにする。しかし、ピリポは「来て、見なさい」(46)とこれだけ! 偏見や不信を乗り越える唯一の道は、イエス・キリストに出会うこと以外にはない。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23)。日ごとに主イエスと出会うことを大切にし、教会の礼拝、集会に大切な人を「来て、見なさい」と招くことができたらと願う

「前に・・・見ました」(1:47~49)
偏見に捕らわれていたナタナエルだが、ピリポについて来て、見た。イエスはナタナエルを「まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」(47)と言う。「イスラエル」(「神と争う者(取り組む者)」の意)は元来、神と格闘し、神と取り組んだイスラエルの先祖、族長ヤコブ個人につけられた名(創世記32:28)。イエスは彼を、《自分の弱さを認め、救いを真剣に求めて神と取り組む者、神の前に誠実であろうとする者》と内面を見られた。ナタナエルはこのイエスの洞察に神のまなざしを感じ取り、イエスを「イスラエルの王」すなわち、メシア(キリスト、救い主)と信じ告白する。
アンデレ、ヨハネ、シモン・ペテロ、ピリポ、ナタナエル。この5人はイエスとの出会い方も、イエスを信じるに至ったいきさつも、イエスをメシア(キリスト、救い主)と告白する表現も、みな違っている。ここが素敵なところ。しかし、共通することは、まずイエスの方で目をとめてくださったこと。私たちも同じ。イエスがまず「私」を「見つけて」(43)くださったのである。心燃やされる。

「それよりも大きなことを、あなたは見ることになります」(1:50~51)
ナタナエルはいちじくの木の下で、創世記28:12にある、族長ヤコブ(イスラエル)が見た夢のことを黙想していたと推測される。ヤコブが見た夢とイエスが51節で描く光景は、み使いたちが天地の間を上り下りしている点で共通する。しかし、ヤコブの夢では「はしご」だが、イエスのことばでは、はしごの位置に「人の子」、すなわち、イエスご自身が立っている。
神の御子(イエス)の受肉、十字架、復活、昇天と着座、聖霊降臨によって、今や天地はつながり、「天が開けて」いる。私たちはイエスと交わり、イエスに留まることによって、天の栄光を見、天の御父の愛を味わい、天の祝福と喜びと平安と自由を、この地上にあっても豊かに体験することができる。そして、天地の交わりは一層豊かになっていく(エペソ1:10)。

開かれた天のもとに、「来て、見なさい」。「大きなことを、あなたは見ることになります」。