礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【説教アウトライン、2019年1月6日】 「神の民として今を生きる」   レビ記 26:11~13

蓮沼キリスト教会の2019年の標語は「神の民として今を生きる」、聖句は「わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(レビ記26:12)。

「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。
神は人をご自身のかたちとして創造し、神との生きた交わりに生きる者、神のみ心に沿って歴史と文化を形成し、神の愛といつくしみを世界の中で証しする者とされた。(創世記1:26~28)
しかし、最初の人であり人類の代表たるアダムは妻エバと共に神に反逆し、神に対して罪を犯し、罪に堕落した。人は罪ある者、死ぬ者となった(創世記3:1~13)。
にもかかわらず、神は人を見捨てない。人の堕落の直後、神は女(エバ)の子孫による勝利、人類の救いを約束し(創世記3:15)、救済の契約を明かされた。
それから、神はアブラハムを選び、彼とその子孫を祝福すると契約なさった(創世記12:1~3、17:1~8)。神は契約の民イスラエルの出エジプトの後、正式に彼らをご自身の民(「祭司の王国、聖なる国民」)とすると契約し(出エジプト19:4~6)、彼らにみこころを逐次啓示し、彼らを通して神の救いの約束のことばを保持するようにされた。神は彼らによって、神のみこころと人間の本来的な祝福された生き方とを世界に伝えようとされた。また、神はやがて救済の契約のアップグレード(それは徹底化と内面化)である「新しい契約」を結ぶことを予告なさり(エレミヤ31:31~34)、イスラエルを通して約束の救い主を世に送られた。神の御子がマリアの胎に人となって宿り、救い主として世にお生まれくださったのである。この方が主イエス・キリストである。
イエスは罪なき人として神の御前に従順に生き、私たちの罪を負って十字架でいのちささげ、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださった。神はこのイエスを死からよみがえらせ、人を復活のいのちに生きることができるようにされた。

神がご自身の民と結ばれた救済の契約の祝福は何か。イエス・キリストへの信仰によるすべての人がこの救済の契約に入れられるのである(ガラテヤ3:11~14)が、その祝福はレビ記26:11~12において二重に示されている。
神の契約の祝福の第一は、「あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる」「わたしはあなたがたの間を歩み」(26:11~12a)とあるとおり、《主なる神ご自身が民の間に臨在してくださること》である。旧約の幕屋または神殿はそのことの目に見えるしるしである。この主の臨在は、人としての性質を取ってくださった御子イエス・キリストにおいて成就している(ヨハネ1:14、2:19~21、エペソ1:23、黙示録21:1~4)。
神の契約の祝福の第二は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(26:11~13)ということばに示されるもの、すなわち、《主ご自身と民との間の人格的関係》である。この関係が神とキリスト者との愛にあるいのちの交わりの基盤である。御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかっている私たちにおいては、それは父と子の親しい愛の関係にまで深め、高められている(ローマ8:14~15、ガラテヤ4:4~7)。
神は信仰においてキリストと結ばれる者に、新しい契約に基づいて、御子の御霊を心に与え(ローマ8:14~15、ガラテヤ4:6)、「神の臨在」と「神との人格的関係」という契約の祝福を、今、ここで、深く享受し、その祝福の中に生き生きと生きることができるようにしてくださる。

私たちは「神の臨在」と「神との人格的関係」という契約の祝福を、神の民の共同体として共に享受するようにも召されている。それゆえ、共に教会に集うことを大切にしたい(ヘブル10:25)。仮に物理的にそこに集えなくても、情報を共有し、離れていても心合わせ、祈りをともにしたい。そして、その神の民の共同体の交わりの中から世に遣わされていきたい。神と人々を結び、人々に神の御国の祝福をもたらす祭司として、世に遣わされていきたい。
ヘンリ・ナウエンは「祈りの手」を教会共同体のあるべきイメージとして提示する。合わされた両手の10本の指は互いに絡み合い縛り合うことなく自由であり、しかし、上(神)に向かってまっすぐに立ち、互いやさしく寄り添っている。そして、手と手を合わせたところにできたゆったりした空間に多くの人を招き迎えるのである、と。
私たちは今年、「神の臨在」と「神との人格的関係」を大切にする神の民の共同体として生き、さらに人々を迎えていきたい。

ドイツのアンゲラ・メルケル現首相が1995年、環境相時代にドイツ福音主義教会大会でした「私の人生の模範」と題するスピーチの一節を引用する。

「わたしたちはキリスト者として模範的な像を持つべきだろうか? そもそも像をもって大丈夫なのだろうか?
このことについて、わたしにはまず「偶像の禁止」が思い浮かびました。「私は主、あなたの神、あなたはいかなる像も形も作ってはならない、それらを拝んだり仕えたりしてはならない。わたしはねたむ神だからである」(出エジプト記20章参照)。それに続く箇所では、人がもしあまりにも一つの像や偶像に依存するとどんなことが起こるかが描写されています。このことは私の目には、模範が硬直したものであってはいけないということを意味しています。それらの模範が神の代わりになってはいけない、私たち人間は神とのかかわりにおいて生きるように作られており、地上の像にしがみつくことは許されないのです。」
(アンゲラ・メルケル『私の信仰 - キリスト者として行動する』
(新教出版社、2018年11月1日)p.23-24)

「私たち人間は神とのかかわりにおいて生きるよう作られており」ということばが実に印象的である。メルケル氏の、キリスト教的人間観に立ち、あらゆる人の尊厳を守り、被造物に対する責任を全うする姿勢は、神の臨在の中で、神との人格的な関係の中から生まれるものだと知らされる。
神がキリストにおいて、聖霊によって、今、ここに、共に生きてくださる臨在の現実を、この方との人格的愛の交わりの中で日々体験させていただこう。そして、そこにおいて天の慰めと力をいただき、神のみこころにかなって造り変えられ、人々のためにとりなし祈り、この世に神の国の祝福をもたらす神の民としてさらに仕えさせていただこう。