礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年12月16日 説教アウトライン】   「愛の神様」     ルカの福音書 15:11~32

 「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。神は「無限、永遠、不変」(『ウェストミンスター小教理』問4)。ゆえに、神の愛も無限、永遠、不変(イザヤ54:8、エレミヤ31:3)。この愛の神とともにいるとき、人は本当に自由で、平安で、生き生きとして力強く、幸せである(詩篇73:28)。だが、人は神の愛に気づかず、神の愛を無視する。人の罪(神に逆らい、自己中心の堕落した性質)のゆえである。実に愚か。にもかかわらず、神は人を愛し続けてくださる。
 本日のイエスのたとえ話は、よく「放蕩息子」のたとえと呼ばれるが、放蕩した弟息子だけでなく、優等生の兄息子も無視できない。主人公は二人の息子の父親である。だから、このたとえは「二人の愚かな息子を愛し続ける父親」のたとえと言うべきであろう。
 弟息子は父に対し生前贈与を要求する。自分の遺産を要求することは、父の死を願っているに等しい。「この財産さえあれば、父親なしでも一人で一人前にやっていける。その方が自分の思うまま、自由だ」と思ったのである。しかし、彼は財産を使い果たし、落ちるところまで落ちてしまった。父とともに生き、父と交わり、父とともに働くことがどれほどの恵みであるかわかっていなかった。愚かである。これが人間の姿。神から離れれば自由になれると思って神から離れ、悲惨の極みに落ちてしまっている。
 彼は我に返り、使用人もたらふく食べることができる、あの父の家に帰る決心をし、父親に言うことばを考える。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(18~19)。息子としては失格でも、使用人としては価値がある存在だと思っている。父へと方向転換はしているが、まだ真の悔い改めへと深められてはいないようである。しかし、父親は彼をずっと待っていた。父の息子への愛は衰えることがなく、変わることなく、ますまあふれていた。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、(何度も)口づけした」(20)。ゆっくりと威厳を保って歩くのを常としただろう父親は、息子目指して一目散に走り出た。放蕩三昧の息子は厳しく罰せられるべきとする当時(申命記21:18~21)にあって、無条件に息子を受け入れることは、父親自身が村人から辱めや非難を受けることになる。しかし、この父親は世間体や村人の目、人々からの非難などものともせず、そのような犠牲を自分が負って、愛をもって息子を赦し、受け入れた。この父親の驚くべき愛が息子を真の意味で悔い改めへと導いた。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません」(21)と。使用人となることさえできない。しかし、父親は彼を子として迎え、祝宴を開き、帰還を喜び祝った。愛の神はこの父親のような方。
 優等生の兄息子は、父親が弟息子を迎え入れ、祝宴を開いていると聞いて怒る(28)。彼も父にどれほど愛されているか、父とともに働けることがどれほど幸いか気がついていない。彼も愚か。父は「出て来て」彼をなだめ、「子よ。お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのもの」と言って、彼に与えられている大きな祝福を思い起こさせ、彼を家族全体の喜びへと迎え入れようとする。神はこの父親のような方。
 神はひとり子イエスを救い主として世に与え(ヨハネ3:16)、イエスは生涯の従順と十字架の死と復活を通して罪の贖いを成し遂げられた。私たちはイエスを信頼して、愛の神のもとに帰ることができる。愛の神はいつも、さらに恵もうとして待っておられる(イザヤ30:18)。