礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年12月9日 説教アウトライン】  「キリストが立っておられる」  ヨハネの福音書 1:19~28

イエスが公に活動を始めた最初の週の出来事(1:19~2:11)の第一日目。バプテスマのヨハネの証しである。

「私はキリストではありません」(1:19~20)
ヨハネは当時待望されていたキリスト(メシヤ、救い主)なのかどうか? 彼は明言する。「私はキリストではありません」。
キリスト信者で「私はキリストだ」と言う人はなかろう。しかし、キリスト的にふるまい、教会の頭となり、教会を私物化し、兄弟姉妹を力で支配しようとするおそれはある。また、入信の時は自分に頼まず、イエスを救い主キリストと信じて信仰生活を始めても、その後は自分の力で頑張って信仰生活・教会生活を送ろうとするおそれもある。
キリスト信者は、生涯、自分ではなくイエスをキリスト、救い主とし、イエスに信頼し、イエスを頼って歩む者なのである。私たちはキリスト(救い主)ではない。

「私は荒野で叫ぶ者の声です」(1:21~24)
当時、旧約のマラキ4:5のみことばに基づき、キリスト到来の前にはあの偉大な旧約の預言者エリヤがやって来ると言い伝えられていたが、「そのエリヤでは?」。彼は答える。「違います」(マタイ11:9~11参照)。
「では、あの預言者ですか?」(申命記18:15)。「違います」(使徒3:22~23)。
では、ヨハネとは何者か?「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です」(イザヤ40:3参照)。ヨハネは、旧約のイスラエルのバビロン捕囚からの解放にまさる大きな解放を与えてくださる方、世の罪を取り除くことができる唯一の方を指し示し、そのお方を迎える準備をするように人々に悔い改めと信仰を呼びかける「声」の役目を果たす者であった(29~31)。イエスが「ことば」(1:1)だとすれば、ヨハネは「声」である。「ことば」を確かに伝え、「ことば」が聞く人の心にとどまれば、「声」は消えていってよい。
伝道や奉仕における私たちの務めも「声」である。キリストが証しされ、キリスト自身とそのことばが相手の心に残り、キリストの栄光が輝けば、自分でも人からも覚えられる必要はない。ただ、神が覚えていてくださり、神が喜んで心に留めていてくださればそれで十分なのである。

「私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」(1:25~28)
ヨハネはさらに謙遜にもこう言う。「私は、やがて公に活動を開始される方、いや、皆さんは知らないかもしれないが、今この群衆の中に立っておられるお方が働かれるための準備をしているにすぎない」と。さらに「私はその方の履き物のひもを解く(奴隷の奉仕をする)値打ちもありません」と。
イエスが「最高の人物だ」と評したヨハネ(マタイ11:11)にしてそうなら、私たちは「主イエスに奉仕をする値打ちもない者」ですと言わざるを得ないだろう。にもかかわらず、私たちはいま、いろいろな形で奉仕をさせていただいている。「奉仕の恵み」にあずからせていただいている。「恐れつつ、主に仕えよ。おののき震えつつ、子に口づけせよ」(詩篇2:11)である。そうする時、イエスの方がかえって私たちに奉仕し、私たちをさらにへりくだった良き奉仕者へと造り変えていってくださる。
「悔い改め」と「信仰」という「救い主キリストへ近づく道」「救いへの道」を示したバプテスマのヨハネは、「謙遜」と「畏れ」という「キリストの御前に仕える道」「奉仕の道」をも指し示してくれている。

キリストが立っておられる。私たちはこの方と交わり、この方をひたすら証ししたい。