礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2018年11月4日 説教アウトライン】 
「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる」  ピリピ人への手紙 3:7~16


キリスト者とは、どんな人か。キリスト者は、キリストを信じることによって「キリストを得」(8)た。まず「キリスト・イエスが捕らえてくだった」(13)のである。キリスト者はキリストを知る者となった(8)。そして、キリストを知り続ける(10)。キリストを人格的に知り、キリストと交わる者として生きる。キリスト者のうちに救いの「良い働きを始め」られた神は、その救いを「完成させてくださる」(1:6)。
 
Ⅰ キリスト者の確信、キリスト者の生涯のまた永遠の目標(3:8~9)
パウロは言う。私の主として「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」(8)にまさるものはないと。“キリストこそ、すべてのすべてである”。これこそキリスト者の確信である。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益である」(1:21)。 
キリスト者の生涯の、また永遠の目標は何か。「キリストを知る」こと(8,10)、「キリストを得る」こと(8)である。キリストを知ったからこそ、さらに知るのであり、キリストを得たからこそ、さらに得るのである。そして、「キリストにおいて見出される」こと(9、私訳)。神からも、自分自身でも、周囲の人からも、私がキリストを通して、キリストの内に見られることである。
キリストは、神の子でありつつ人となり(受肉)、私たちの罪の身代わりに十字架で犠牲となり(十字架)、死に勝利してよみがえり(復活)、天に上げられ、御父の右の座に着き、天から聖霊を遣わした方。この受肉・十字架・復活のキリストにあって私が見られ、私が生きること。これこそ幸いである。

Ⅱ “世のものに夢中にならず、キリストに目を注ぐ”~現在から将来へ~(3:9~11)
 移り行く世のものに夢中にならず、キリストに目を注ぐとき、そこから何が見えてくるのか。

(1) キリスト者の現在 (義認 - 大安心の基盤)(9) 
受肉と十字架と復活のキリストは今も生きて、神の御前におられる。キリスト者は信仰によって義なるキリストを得、義なるキリストにおいて神に義と認められている(ガラテヤ2:16)。私たちはこの義なるキリストの内に自分自身を見ることができ、最後の審判の日にも、キリストの内にあって神に義と宣言していただける。私たちは受肉と十字架と復活のキリストに覆われているので、キリストのゆえに神の御前に、キリストのように神に従い、人々を愛し、自身をささげ、償いを終え、死に勝利した者と認められている。さばきは終わり、神に受け入れられ、大安心である。

(2) キリスト者の地上での生(聖化 - キリストを知り体験し続ける醍醐味)(10)
受肉と十字架と復活のキリストは今もおられ、聖霊において信じる者のうちに生きてくださる(ガラテヤ2:20)。生きて働き続けてくださる。それゆえ、キリスト者は生の全領域で、継続的に、深く「キリストを知り(体験し)」続ける。そうして「キリストの復活の力を知る」。罪に勝ち死から復活したキリストのいのちを体験し、罪とサタンの力への勝利、困難から立ち上がらされることを体験しながら、成長・成熟させられる。「キリストの苦難」をも味わい知り、自分が死んで(犠牲になって)隣人を生かすことを体験させられる。そして、キリストに似た者と変えられていくのである(Ⅱコリント3:18)。受肉と十字架と復活のキリストが私たちの内に生きて、私たちをキリストのかたちに変えてくださる。キリストをますます知り、さらに豊かに体験し続ける醍醐味を知るのである。

(3) キリスト者の終末的希望(栄光化 - 死者の中からの復活)(11) 
キリスト者は、死後は直ちに霊において完成し(第一段階、ウェストミンスター小教理37)、キリスト再臨に際しては、からだの復活、全人格的な完成、永遠の交わりの完成が実現する(最終段階、同38)。それゆえ、世の苦難の中にあって、キリスト者はなお終末的希望に生きることができるのである。「なんとかして(なんとしても)死者の中からの復活に達したい」と嬉々として、前に進む。

Ⅲ “完成を目指して前進し続ける” というキリスト者の成長・成熟(3:12~16)
「大人である者」の考え方(15)は、“自分は立派だというおごり”と“弱いから駄目というあきらめ”を拒否し、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」(12)から前進できると確信し、「到達したところを基準」に、そこからさらにキリストに向かって前進することである(16)。

キリストを知るようにと、キリストが私たちを捕らえてくださった。だから、私たちは日々生けるキリストに向き合いながら進む。神はキリストにあって私たちを、終わりに、必ずや上に召してくださる。必ずや栄光の内に引き上げ、迎え入れてくださるのである。