礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年10月21日 説教アウトライン】  「愛のあいさつ」  ローマ人への手紙 16:1~16

パウロの「ローマの教会と信徒たちへの手紙」の16章(最終章)は個人的あいさつである。

Ⅰ フィベの推薦(16:1~2)
パウロはまず、この手紙を託そうとしているフィベを推薦する。彼女はパウロがこの手紙を執筆した地であるコリントの東方の港町ケンクレアの教会の「奉仕者(ディアコノス)」「執事」(1)であった。彼女はその職務を忠実に果たしていた。貧しい人たちへの食物の配給(使徒6:1~6)をはじめとして、助けの必要な人にそのニーズに合わせた援助をし、また、牧師、教師、伝道者の働きの補助者としても奉仕していた(ピリピ1:1)。
パウロはこのフィベを、ローマの信徒たちが「聖徒たちにふさわしく」、すなわち「主にあって歓迎」(2)するように勧める。「主にあって迎える」とは、「キリストとの生命的なつながりにおいて」、すなわち、キリストを媒介とする交わりの中で彼女を迎えるということである。
聖徒の交わりはキリストを媒介とする交わりであるゆえに、キリスト抜きに、人間的情熱・感情・責任感…だけで交わるならうまくいかない。縛り合ったり、傷つけたりということにもなりかねない。まず各人がイエスに親しく交わり、愛の神に深く根ざし、聖霊に満たされることによって、聖徒の交わりは自由に、のびやかに、暖かく展開されていく。イエス様を親しく迎える喜びの中で(ルカ19:5~6)、イエス様を迎えるようにその聖徒を迎え、イエス様を中心として共に交わり、相手をイエス様がともにおられる人として尊敬し、大切にし、具体的な助けの手を伸べる。そして、ともに主に感謝し、主に栄光を帰するのである。

Ⅱ 「よろしく」という心のこもったあいさつ(16:3~16)
パウロは、ローマ教会の26名の友人たちの名(13「彼の母」や15「彼の姉妹」を含む)を挙げ、名の上がっていない兄姉をも含めて、心からのあいさつをする。「よろしく」(3,5,6,7,8,9,10,11,
12,13,14,15,16b)の原語は、本来単なるあいさつ以上のもので、相手を家族のように抱擁し、口づけして、自分の家に招き入れるほどの深い愛情を表現するものである。しかも、16節aの「あいさつを交わしなさい」も同じ原語である。心のこもったあいさつから、初代教会の主にある交わりの親密さを知る。
最初にプリスカ(プリスキラ)とアクラの名が挙げられる(3~4)。彼らは第一に、それぞれが主に仕えただけでなく、夫婦が一つ心になって、一致して主に仕えた。彼らはいつも二人一組で聖書に記されている。第二に、天幕づくりをしながら主に仕えた。仕事をし、生活の資を稼ぎ、そこから献金をし、主に仕えた。第三に、パウロと協力し、パウロの同労者として主に仕えた。第四に、命がけで(「首を差し出して」)主に仕えた。第五に、行く所々で主に仕えた。しかも、家を教会として。ローマ、コリント、エペソ、ローマで。第六に、民族を超えて主に仕えた。彼らはユダヤ人であったが、「異邦人のすべての教会も感謝しています」(4)と言われている。しかし、彼らは肉の力、自分の力でそのように歩んだのではない。「キリスト・イエスに」あって、すなわち、主イエスに信頼し、主イエスと交わり、主イエスのいのちと力をいただいてそうした。
パウロが心を込めて「よろしく」と伝える26人中、女性は9人、奴隷と思しき者9人、ヘロデ王家関連の人(10b、11a)や富裕者関連の人(11b)もいた。「みなキリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ3:26~29)なのである。

「教会はキリストのからだ…」(エペソ1:23)である。キリストは教会において臨在し、私たちは教会においてキリストを見、キリストに触れることができる。キリストのからだなる教会に結ばれ、キリストのからだの肢体とされているキリスト者の兄弟姉妹一人一人こそ、具体的にキリストを見させ、キリストに触れさせてくれる存在である。それゆえ、私たちはその存在を心から喜び、「よろしく」と愛のあいさつを交わす。「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」!