礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年10月14日 説教アウトライン】 
 「私のために神に祈ってください」 ローマ人への手紙 15:30~33


ローマ人への手紙の本文は15:13までであり、15:14以降は言わば「後書き」「私信」である。
使徒パウロは、ローマを経て西の果てイスパニア(スペイン)まで宣教することを目指したが(23,24,28)、まずはエルサレムの貧しいユダヤ人キリスト者に異邦人教会からの援助を届けるため、東のエルサレムに向かおうとしていた(25,28)。パウロは危険と困難が予想され、不安でもあった。しかし、この援助の使命が成功すれば、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者(聖徒)との愛の交わり(コイノニア)が実現し、エルサレムの厳格な兄姉たちのパウロの自由な異邦人宣教に対する違和感を取り除くものとなる。
それゆえに、パウロはローマのキリスト者たちに祈りを懇願する。

Ⅰ パウロの願い(15:30)
「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします」(30)。
パウロは、エルサレムにおける危険と奉仕の難しさを知っていた(使徒20:22~25)。それで、「私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください」(30)と切に懇願する。「力を尽くして」とは「戦う」とも訳せ、祈りの戦いをともにしてほしいということ。
「兄弟たち」とあるが、キリスト者は、血はつながっていなくとも、互いに霊的に兄弟姉妹である。ともに主イエスに結合され、ともに神を父とし(主イエスを長兄とし)、御霊(聖霊)が心に注いでくださる愛(5:5)によって一つに結ばれている。
二人三人が主イエスの名において集まっているところにはイエスご自身が特別に臨在されるとイエスは語った(マタイ18:20)が、たとえ空間的に離れていても、「心を一つにして」(マタイ18:19)、ともに父なる神に祈るなら、兄弟姉妹の間に愛を生み出す聖霊がそこにおられ、聖霊において主イエスがともにおられて、天の父はその祈りをかなえてくださる(マタイ18:19)。
私たちも本気で祈りをリクエストし合い、祈りの戦いと恵みとをともにしたい。

Ⅱ パウロの不安(15:31)
「私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように」(31)。
パウロには二つの不安があった。一つは彼の命を狙っているユダヤ人(ユダヤ教徒)たちの行動であり、彼らの扇動によって騒ぎが起こり、パウロは捕らえられ、生命の危険にさらされるかもしれなかった。
もう一つは異邦人の援助がユダヤ人キリスト者に理解され、快く受け入れられるかどうかである。しかし、それは実際スムーズに行われた。彼のエルサレムにおける奉仕は実行され、人間の思いを超えて神のみこころ(和解、交わり、一致)が実現した。
昨日、尾山令仁牧師のアジアに対する謝罪と和解の運動の証しをうかがった。尾山師はある日の静思の時、マタイ5:23~25のみことばを通して、日本はアジアの人々から恨まれていることに気づかされ、それゆ、まず謝罪と和解が大切だと主から示された。それで、フィリピン、東南アジア、それから韓国に謝罪と和解をしに行った。韓国では堤岩里にある日本に焼き討ちされた教会跡を見た。そして、祈りの中で、「日本で献金を集め、日本からの償いとしての献金によって、ここ堤岩里に教会を建てていただくように」と神様から示されたの。尾山師は日本に帰って、献金を呼びかけ、1000万円(現在の価値でいえば1億4000万円くらい)が集まり、謝罪と和解のしるしとして、韓国に届けた。堤岩里教会は監理教なので、監理教の教団に献金をお渡しした。堤岩里教会焼き討ち被害者の遺族会ともいろいろあったが、最終的には真の和解となった。尾山師は「主が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる」(箴言16:7)とのみことばが真実であることを実感させられたという。
尾山師の姿に、エルサレムの貧しいキリスト者たちの支援のために異邦人教会から献金を集め、その献金をエルサレム教会に届け、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の和解と一致を図ろうとしてパウロの姿が重なる。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)。

Ⅲ パウロの計画(15:32)
「また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように」(32)。
パウロは、エルサレムでの奉仕が終わった後、とローマに行く計画を立てていた。意気揚々とローマに行くことを思い描いていただろう。しかし、実際には、使徒21:27~に記されているように、パウロはエルサレムでユダヤ人たちに訴えられ、捕えられ、皇帝に上訴した囚人としてローマに護送される。彼が思い描いていたのとは全く別の方法で、パウロのローマ行きは実現することになる。
そこに神の不思議な摂理があった。パウロはその神の摂理に導かれ、神のみこころに生きた。祈りを通して、神の計画は人知を超えて最善に行われていったのである。
「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと究めがたいことでしょう。・・・すべての者が神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(11:33,36)。

「平和の神」は確かに生きて、働いておられる。この平和の神が、パウロを不信仰な人たちから救い出し、信仰の兄姉との憩いの場を与えてくださる。そう確信するパウロは、この平和の神が、ローマのキリスト者たちにもともにいてくださいますようにと祈り、ローマのキリスト者たちを心から祝福する。真実に祈りをリクエストする者は、また祈りをリクエストする相手の祝福を真剣に祈る。こうして、祈りの交わりを通して、神のみこころは最善に実現されていく。
「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように」(33)。