礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年9月16日 説教アウトライン】   「主に信頼する幸い」   詩篇 84:1~12

 「万軍の主よ」(1)、「万軍の主、私の王、私の神よ」(3)、「万軍の神、主よ」(8)、「神よ」(9)、「万軍の主よ」(12)(「万軍の」とは、「神が創造されたすべてのもの、森羅万象の」という意味(創世2:1))。詩人は絶えず主なる神の御名を呼ぶ(1,3,8,9,12)。主ご自身をひたすら慕い求める。神に焦点を当てて生きている。
人のおもな目的、最上の幸福はこれである。「神を知ること」(カルヴァン『ジュネーブ教会信仰問答』1)、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜ぶこと」(『ウェストミンスター小教理問答』1)。「われは御名を呼ぶばかりの者にてあり」(八木重吉)。

Ⅰ 「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」(84:1~4)
 詩人は主なる神をひたすら慕い求めるがゆえに、主が臨在しておられ、その方に礼拝をささげる場である神殿(旧約時代はエルサレムにあった)を自分の全存在(2節、「たましい」「心」「身」)をもって、絶え入るばかり恋い慕う(1~2)。
雀や燕が祭壇のところに巣を作っている様子をうらやむほど彼は神殿を恋い慕う(3)。
そして、神殿に住んで、そこでいつも主をほめたたえて礼拝し、主に対して奉仕している人たち(神殿職員である祭司やレビ人たち)は何と幸いなことかと感動の声を上げる(4)。
主のご臨在の中で、主を礼拝し、主に仕えることは最高の幸せなのである。
主なる神は天地に遍在しておられる(エレミヤ23:23~24)が、天そのもの(天の聖所)におられ(ヘブル9:24)、天に御座があり(黙示4:2)、天の礼拝の中に臨在しておられる(黙示4~7章)。しかも、イエス・キリストにおいて、聖霊によって、地上で「イエスの名において集まるところ」(教会、聖徒の交わり、マタイ18:20)に臨在しておられる。

Ⅱ 「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中に、シオンへの大路のある人は」(84:5~9)
 詩人は次に、神殿で礼拝することを願い、「都上り」し、神に導かれてシオン(神殿の丘)で主とお会いすることができる巡礼者・礼拝者の幸いをうたう(5~7)。
「シオンへの大路」すなわち、シオンへと向かう願いと熱心が心にあり、しかも、自分の力ではなく主の力をいただいてそこに進み行く者は幸いである(5)。荒野の中でも渇きをいやされ、長旅にも弱らず、かえって力づいてシオンで神の御前に立ち、主とお会いすることができる(6~7)。
主なる神を自分の力と頼み、かつ、日々の個人礼拝、週ごとの主日礼拝、やがての天の礼拝(ヘブル12:22~24)へと向かい、主を礼拝し、主と対面することを目指して歩み続ける者は最高に幸せである。「涙の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします」(6)。
「われらの盾」「油注がれた者」(9)はイスラエルの王のことであるが、私たちにとっては、まことの王であり、神と人の仲介者であるキリストである(Ⅰテモテ2:5)。十字架で私たちの罪を贖い、復活した生けるキリスト。このお方によって神の御前へと至る幸いの道をこれからも歩かせてくださいと、私たちは神に大胆に祈るのである(8)。

Ⅲ 「なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は」(84:10~12)
 主の御前、主の臨在の中に身を置き(10)、主に信頼して(12)、その守りの中で生きることは、ほんとうに幸せである。
主ご自身が心の内なる「太陽」(光)となり、外からのサタンの攻撃を防ぐ「盾」となり、この世では「恵み」を、来たる世では「栄光」を与え、常に「良いもの」(究極的には「聖霊」、ルカ11:13)を拒むことがない。すべてが益となるのである(ローマ8:28)。

  「絶えず御顔を慕い求めよ」(詩篇105:4)。主の愛の招きに信頼し、心を高く上げよう。