礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年9月2日 説教アウトライン】  「光を証しする者」   ヨハネの福音書 1:6~13

 ヨーロパのある地方では、待降節(アドヴェント)の期間が始まって、最初にアドヴェントクランツのキャンドルに火をともすのは、「ヨハネ」という名を持つ人の役目であると言う。まことの光の到来を真っ先にあかしししたのはバプテスマの「ヨハネ」であったからであり、自分の書いた福音書の中に、まことの光の到来を明らかに記し、証ししたのはヨハネの福音書記者である使徒ヨハネであったからである。ヨハネという名前、その意味は「主は恵み深い」というものである。

Ⅰ 証し人ヨハネ(1:6~8)
福音書記者である使徒ヨハネのまなざしは歴史のかなたの永遠(1)から、バプテスマのヨハネの出現という歴史上の出来事に向けかえられる(6)。イエス・キリストが永遠から「あった」「存在していた」神である「ことば」(1)であるのに対し、バプテスマのヨハネは「現れた」(3節の「造られた」(成った)と同じギリシャ語)に過ぎない。
しかし彼は、大切な任務が与えられ、「神から遣わされた」。「ただ光について証しするために来た」(8)。彼は源であるまことの光に照らされながら、まことの光について証しをし、まことの光を指し示していった。
「証し」とは、自分の体験に根ざしたものであるゆえ、まずヨハネ自身がしっかりと光に対面していなければならなかった。いつも光としっかり向き合っている、そのかぎりで、彼は証人でありえた。光から顔をそむけたならば、彼もまた闇にすぎない。

Ⅱ 光を拒む世(1:9~11)
神のことばなるお方、御子こそ光の源、「すべての人を照らすまことの光」であられる。御子は永遠の初めから(1)、そして、人が創造された初めから(4)、まことの光であられた。
「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」(10)。「世」(コスモス)は、神が創造なさった「秩序ある世界」であるが、特にヨハネの福音書では、その良き世界が堕落した結果としての、「罪に汚れて混乱した世界とそこに住む人々」を指している。このようなすさまじい「世」にあっても、「まことの光」はそこにおいて輝き続けておられた。そして、この「世」がなおも破壊と破局へと向かわずに保ち続け、成り立ち続けるようにしておられた。にもかかわらず、罪深き「世」は、この光なるお方を知ろうとしなかった(ローマ1:21)。
さらに「ご自分の民(旧約のイスラエル、ユダヤ人)はこの方を受け入れなかった」(11)。そればかりか、この方を十字架につけて殺してしまった。
罪深き「世」はまことの光であられる御子を徹底的に拒んで来たし、悲しいことに、今でもこのような世のありさまは変わってはいない。

Ⅲ 神の子どもとなる特権(1:12~13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(12)。御子イエス・キリストを受け入れ、信頼する者は、だれでも神の子としての特権を恵みとして受ける。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)のである。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)。
しかし、御子イエス・キリストを受け入れ、信じて、神の子どもたされたのは、私たちの自分の力によったのではなく、「ただ、神によって生まれさせていただいた」結果である。何ら誇ることはできない。

私たちは恵み深い主イエスと向き合いながら、「主は恵み深い」と証しさせていただき、主の栄光だけがあらわされることを喜びとして生きたい。これこそ神の子どもの生き方である。