礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年8月12日(平和記念礼拝)】   「平和をつくる」  マタイの福音書 5:1~12

本日の主日礼拝は、平和記念礼拝である。平和について思いを巡らし、平和のために祈りをともにしたい。

だれもが幸いな人でありたいと願っている。小さなことの中に幸せを感じ、感謝することができたらすばらしい。でも、もっと大きな、ずしりと重い幸せがある。イエスはとびきりすばらしい幸いを教えておられる。
この福音書を書いたマタイは、ガリラヤでのイエスの働きを3つの分野にまとめる(4:23)。それは、①「教える」(神の民を教育する)②「宣べ伝える」(福音を伝え、宣言する)③「直す(いやす)」(人々の身体的・精神的・社会的必要に応える)である。
マタイ5~7章に納められている説教は「山上の説教」と呼ばれるもので、群衆が押し寄せる中で語られたが、直接には弟子たちへの教育のためのものである。恵みによって神の子どもとされた者の天の父である神の御前での生き方、また、天の父に似た者とされていく生き方が教えられている。山上の説教冒頭には、「・・・の者は幸いです。天の御国は(または)その人たちは・・・から」という教えが8回繰り返される(八福の教え)。
幸いな人とは、だれか。

「幸いです」とは、イスラエルの民にとっては、神に「祝福されている」という意味である。それは、のんびりし気楽に生きるとか、たくさん持っていて繁栄しているとか、競争に勝って成功しているなどといった、この世の規準で言うところの幸せとは違う。神とともに歩むこと(創世記5:24)、ともにおられる神と交わりながら、いつも神の御前に生きていくこと、これが本当の幸せであり、神に祝福されている状態である。
神の御顔の前に歩む祝福された状態にある人の八つの側面が、「心の貧しい」「悲しむ」「柔和な」「義に飢え渇く」「あわれみ深い」「心がきよい」「平和をつくる」「義のために迫害されている」ということである。神の子どもらしくなるとは、この8つの側面がさらに深化していくことでもある。
人がこのような8つの状態にあることは、この世の規準では必ずしも評価されないし、むしろマイナスの状態として退けられることもしばしばであろう。だからこそ、イエスは、「いや、そのような状態にある者こそ、本当の意味で幸せなのだよ」と励ましておられる。しかも、大いなる祝福(報い)がさらに与えられることを約束しながら。その大いなる祝福(報い)とは、「天の御国」と「慰め」を受け、地を受けつぎ、満ち足り、あわれみを受け、神を見、神の子どもと呼ばれ、天の御国をいよいよ深く味わい知ることである。

真に幸いな人の8つの状態の中から、特に心ひかれた4つを取り上げたい。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(3)。神の御前で、みこころに従えない自分の霊的貧しさや無力さを痛感し、いよいよ神に頼るしかない人は幸いである。天(神)の御国(支配)、神の愛の支配はその人にあり、神が臨在し、助け、すべてを益にしてくださるから。
 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(5)。神により頼み、神がすべてを益としてくださると知るゆえに、自己執着・自己主張から解放され、良きこともつらいことも、すべてを益としてくださる神から賜るものとして、丁寧に「両手でいただき続け」(渡辺和子)、人に優しく接する者は幸いである。神から尊い働きを任される(「地を受け継ぐ」)から。
 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」(7)。神のあわれみを味わい、他者の悲しみや痛みを理解し、ともに担おうとする人は幸い。さらに神のあわれみを体験するから。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(9)。
平和を創造するのは神ご自身である。神こそ平和を創造する方(peace creator)である。
信仰によって神の子どもとされたキリスト者(ガラテヤ3:26)は、神が主イエスの十字架の死によって和解してくださったことにより、神との平和を与えられ、大いに喜んでいる(ローマ5:1~2,10~11)。さらに、キリストの十字架によって敵意を葬り去られ、隔ての壁を打ちこわされたゆえに、人種や国籍、さまざまな違いを越えて、キリスト者間での平和が与えられ、一つとなって神に近づくことができる(エペソ2:11~18)。本当に「祝福されている」。
仲保者イエス・キリストによってもたらされたこれらの和解と平和から来る喜びと平安を日毎に味わいながら、キリスト者は和解を作り出す主イエスにあって、平和をつくる者(peacemaker、和解者)としてこの世を生きる。救い主イエスを人に紹介して、イエスによる神と人との和解への道を備える。人との和解(マタイ5:23~25)、赦し(同6:12,14~15)、復讐しないこと(同5:38~42)、敵を愛すること(同5:44)、間に入って調停する。これらのことを実践することを通して、私たちは平和をつくる者(和解者)として生きる。
さらに、「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)。天に国籍を置く者、偏狭なナショナリズムを超え出た者として、私たちは人々とともに、和解による安全保障に努めることを通して平和をつくる者(和解者)として生きる。安全保障には「軍事による安全保障」と「和解による安全保障」があるが、私たちは「和解による安全保障」が進むように努めたい。和解による安全保障は、必ずしもキリスト者が個人的になせることではないが、祈りつつ、多くの人と連体しながら、和解による安全保障を促進していこうではないか。
神と人、人と人との間に積極的に平和を築き、和解の使者として生きる人は幸い。このように平和をつくる者は、人々から神の子どもと呼ばれ、人々が天の父をあがめるようにさせ(マタイ5:9,16)、「名実ともに神の子である」と認められるのである。
しかし、とたいそうでなくても、平和をつくるゆえに、かえって迫害を受けたとしても(マタイ5:10)、天の御父は「わが子よ」と親しく呼んでくださるのである。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(9)。
「祝福されています、平和をつくる人々。その人たちは神の子ども(たち)と呼ばれる。」

真の幸せとは何か。目に見える豊かさではなく、外側の状況に左右されない、心の中に喜びと平安を持つ幸せである。神と関係の無い幸せではなく、神の子として生きる幸せである。一時的でなく、永続する幸せである。
いつも神の御顔を仰ぎ、神の御前を歩ませていただこう。本物の幸い、ずしりと重く、奥深い幸せの中に生かしていただこう。主イエスの御霊の導きが豊かにあるように。