礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年7月22日 説教アウトライン】   「主の祈り」     マタイの福音書 6:5~15

古代から信仰教育の要であるカテキズム(教理問答、信仰問答)。そのカテキズムの宗教改革期の多くのものが、「使徒信条」「十戒」「主の祈り」を3つの柱として構成されていた。「神を信じ、神の救いを信じること」(信)から、神への感謝の応答として「神に従うこと」、すなわち、「神を愛し、隣人を愛すること」(愛)が生まれ、「神に期待する神への祈り」(望)を通して、愛の実践は真実なものとされる。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」(Ⅰコリント13:13)。
本日は主イエスの祈りの教えを学ぶ。すなわち「祈りのあるべき態度」と「祈りのあるべき内容」について学ぶ。

まず、祈りの態度である。
第一は、「祈るとき偽善者たちのようであってはいけません」(5)。他人の目を意識し、他人にほめられようと祈るのではなく、隠れたところで見ておられる天の父にひたすら心を向けて祈る。そのために、日ごとの神との一対一の密室の祈りを大切にしたい(6)。また、礼拝や祈祷会での代表祈祷がなされているとき、祈りを聞いて評価する者にならないように注意したい。代表祈祷のことば一語一語を自分の心で繰り返し、代表祈祷にぴったり心合わせ、代表祈祷をあれこれ評価しようとする心の隙を作らないことが大切である。なぜなら、他者の祈りを評価しようとする者は、今度は自分が他者の前で祈るとき、人目を意識し、人から評価されようとして、偽善者の祈りをしかねないからである。
第二は、「異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません」(7)。父なる神は、私たちが祈る前から私たちのすべての必要を知り、それを喜んで与えたいと待っておられるのでる(8、イザヤ30:18)。そのことを信じて、簡潔に、率直に祈るようにしたい。

次に、祈りの内容である。
主イエスは祈りの模範例を教えられた(9~13)。呼びかけと6つの祈願から成る「主の祈り」である(最後の頌栄は教会が後で付けたもの)。前半の3つの祈願は「神の栄光を祈り求める」祈り、神さまのすばらしさがこの世で輝くことを祈り求める祈りである。そして、後半の3つは「自分たちの必要を祈り求める」祈りである。
「天にいます私たちの父よ」。イエスは父なる神を「アバ、父さん」と親しく呼ぶ(マルコ14:36)。私たちも主イエスの十字架の死と復活に結ばれ、主イエスと同じく神との親密な父子関係に入れられたので、聖霊によって、神を「アバ、父さん」と呼ぶことができる(ローマ8:15)。
「御名が聖なるものとされますように」。これは、「神が聖なるお方として、(私と家族と教会と世界において)ほめたたえられますように。そして、私の生活のすべてが神を汚すのではなく、神の栄光が現われ、神がたたえられるものとなるためには、どうしたらよいか教えてください」という祈りである。
「御国が来ますように」、「みこころが地でも行われますように」。これらは、「神の愛のご支配が私の心と生活に、またこの地上に実現し、すべての人が神を愛し、互いに愛し仕え合う神の国が実現しますように。そのために私がなすべきことを教えてください」という祈りである。
「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」。これは、「私たちが生きていくのに必要なすべてのもの(「食物、着物、履物、家、田畑、家畜、金銭、器物、信仰深き両親、配偶者、子女、・・・忠実なる為政者、良い政府、秩序ある社会、順調な季節、平和、健康、教育、名誉、良い友達、良い隣人・・・」(ルター))を、今日もお与えください。そして、神がくださるものを感謝して受けることができ、世界の「私たち」みなで分かち合うことができますように」という祈りである。
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」。「負い目」は「罪」に置き換えることができる(ルカ11:4)。この祈りは、「私たちは心とことばと行いで、たびたび罪を犯してしまいます。罪をお赦しください。今日も主イエスの十字架の恵みによって、私の罪が赦されていることを深く思わせてください。そして、他の人たちの罪も赦すことができますように」という祈りである。
「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」。「悪」は「悪い者」とも訳せる。これは、「神の子、神の国の民として神に愛されていることを疑わせる試み、自分の命のために他者を切り捨て、自分だけが栄光を受けようとする誘惑等々、試みに屈することなく、悪しき者(悪魔)から来るすべての誘惑から守り、救ってください」という祈りである。

私たちは主イエスが教えてくださったこの主の祈りを毎日祈ろう。
哲学者シモーヌ・ヴェーユの祈りは、もっぱら主の祈りを一日一回祈るだけであった。しかし、その祈りを彼女は、聖書のギリシャ語で、全身全霊を込めて祈った。ギリシャ語でなくていいのだが、とにかく、主の祈りを、主の祈りだけを、一日一回、全身全霊込めて祈ったら、それで祈りは十分であるとも言えよう。
また、密室の祈りで天の御父に親しく祈るが、その祈りの最初を主の祈りで始める。または、最後を主の祈りで結ぶ。これも良いと思う。
また、主の祈りの呼びかけと6つの祈願を7つの柱として、様々に祈るのもに良いと思う。たとえば、「御名が聖なるものとされますように」と祈る。ここに一つの柱が立つ。すると、しばらくその第一の祈願という柱に関する祈りを自由にする。「私があなたをもっとあがめることができますように」、「私の子どもたちがあなたをもっと大切に思い、心を込めて賛美を歌うことができますように」、「この町に住む人が、神さまをたたえますように。そのために、この町にもっともっとキリスト者が増えますように」、という具合である。
主の祈りを日々祈ることを通して、私たちは自分が愛されている神の子であることを実感し、父である神の恵みなしには生きることができない自分であることを心に刻ませられる。そして、私のうちで神の存在がさらに大きくなる。それはとても幸いなことではないか。主に栄光!