礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年7月8日 説教アウトライン】   「希望の神」  ローマ人への手紙 15:7~13

ローマ教会内には、断肉・菜食、祭日・断食日重視の「厳粛主義者」(信仰の自由の確信の「弱い人」)と、何でも自由に食べることができると確信する「自由主義者」(信仰の自由の確信の「強い人」、パウロもこの立場)があり、両者の間に緊張関係があった。パウロは彼らにさばき合うのでなく、受け入れ合うようにと勧告する(14:1~15:13)。
教会内には、さらに、ユダヤ人と異邦人というより深刻な違いも厳然としてあった。
いつの時代も、教会に集められている者たちは千差万別である。身体的、精神的、霊的にそれぞれの個性があり、民族、言語、文化が違い、経験、暮らし向き、考え方も多様である。共通点はただ一つ、御父・御子・聖霊の三位一体の神を信じ仰ぎ、キリストの一つからだ(聖なる公同の教会)に結ばれているという点だけであると言っても過言ではない。
しかし、「神の栄光のために」(7)キリスト者は互いに受け入れ合う。「希望の神」(13)を信頼して。

Ⅰ ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が互いに受け入れ合う(15:7~9a)
パウロはこれまでは「厳粛主義者」(弱い者)と「自由主義者」(強い者)が互いに受け入れ合うべきことを述べてきた。しかし、7節では「互いに受け入れ合いなさい」という勧めの対象は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者に変わっている。両者は民族的、文化的、生活習慣に大きな違いがあり、さらに旧約の選びの民であり、神から多くの特権(9:4~5)を与えられていたユダヤ人は異邦人を見下す傾向があった。
なぜ、そのような多くの違いや異質なものへの嫌悪感を越えて互いに受け入れ合うのか。「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」(7)からである。キリストは、私たちを、神のかたちに創造されたかけがえのない者として愛してくださった。今も愛してくださっている。しかし、私たちは神に背き、自己中心の罪に生き、キリストを悲しませている。私たちは徹底的に不敬虔な者である。にもかかわらず、キリストは私たちの罪を含めた私たち全体を受け入れ、背負い、十字架の死にまで進んでくださった。キリストは十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げ、その死をもって罪の代価を払い、墓に葬られ、しかし、三日目に死を打ち破って復活し、永遠のいのちの扉を私たちのために開いてくださった。そして、キリストは私たちを招き、ただ私たちの信仰のみによって(私たちの功績は全くなしに)私たちを受け入れ、神の国の民として生かしてくださった。しかも、「神の栄光のために」。それゆえ、キリストが「私」にそうしてくださったように「あなたがたも互いに受け入合いなさい」。そうすることによって「神の栄光」は現わされ、輝くのである。
受け入れ合うことは、互いに「しもべ」として仕えることを通してなされる。キリストは、神の約束された真理が真実であることを表すために、「割礼のある者」・ユダヤ人のしもべとなられた。それは、ユダヤ人の父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた約束を確証するためであり(8)、また、異邦人も「あわれみのゆえに、神をあがめるようになるため」(9a)である。キリストは、ユダヤ人にも異邦人にも救いをもたらすために、しもべとして仕えられたのである。

Ⅱ ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が互いに受け入れ合う(15:9b~13)
9b~12節では、異邦人が教会に神の国の民として受容されることを証明する旧約のみことばが、次々引用される。
「私」・ユダヤ人パウロが、異邦人の間で、「あなた」(天に上げられたキリスト)をほめ歌う(9)。礼拝で、パウロは異邦人の救いを告知し、異邦人は喜びの賛美を歌う(10~11)。キリストこそ異邦人(諸国民)を愛と恵みをもって治める方である(12)。
このような希望の光景が今やローマの教会において現実のものになっている!


様々な背景と賜物を持つ人々の共同体である教会において、互いに受け入れ合い、ともに神をあがめ、愛し仕え合うためには、希望を神に置くしかない。(個人、家庭、教会、社会の)様々な現実がいかに困難に見えても、希望は神にある。希望をもって前進したい。希望は「信仰による」「喜びと平安」によって強められ、「聖霊の力によって」ますます豊かにされていく(12)。