礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年7月1日】  「宣教の主イエス」  マルコの福音書 16:9~20

マルコの福音書は、目に見えるところでは空っぽの墓、そこに響く「イエスはよみがえられた。再び出会ってくださる」という神のことば、そして、それらを前にした女たちの「恐ろしかった」という反応で終わっている。「それからどうしたの?」とだれもが問いたくなる。
恐れに閉じ込められて終わりではなく、生ける主イエスにある喜びが開かれている。このことを経験している者として、初期のキリスト者たちはマルコの福音書に後日談を付けた。9~20節は、他の三福音書や使徒の働きをもとに、初代教会によって付け加えられた結びである。
復活のイエスのマグダラのマリヤへの顕現(9~11、ヨハネ20:11~18)、エマオ途上の二人の弟子への顕現(12~13、ルカ24:13~35)、十一弟子への顕現と宣教への派遣(14~18、ルカ24:36~43、マタイ28:18~20)、復活の主イエスの昇天および神の右の座に着いたこと(19~20、ルカ24:50~53)。別に「短い補遺」(新改訳2017)、「別の追加文」(新改訳)もついている。

Ⅰ 信じがたいほどにすごい事実を信じよう
私たちの罪のために十字架で死んで葬られたイエスは、本当に死人の中から復活された。イエスはいま生きておられる(9~11、12~13、14)。
そして、「不信仰と頑なな心」(14)のふがいない弟子たちの不信仰と頑なさの中にイエスは立たれ、彼らに「福音の宣べ伝え(福音伝道)」の使命を託された(15)。すごいこと!
天に上げられ、神の右の座に着いた、生ける復活の主イエスが「宣教(福音伝道+愛の奉仕)」を成し遂げられるのである(20、短い補遺)。

Ⅱ 生ける復活の主イエスへの信頼の重要性
人はイエスを信じて義と認められ(ローマ3:22)、救われる。信じない者は罪に定められる(16)。イエスを信じることは、地上の生涯と永遠の祝福につながる。
イエスは弟子たちの不信仰を非難した(14)。不信仰はイエスに叱られるべきものである。しかし、その直後に、イエスは福音伝道の命令を弟子たちに与えている(15~16)。彼らは語ったのである。「信じない者、罪に定められるべきものの見本のような私たちが、神のあわれみによって信じさせていただいている。不信仰と心の頑なさの代わりに恵みをたっぷりいただいている。あなたは滅びから守られている。信じることができるのだ!」(Ⅰテモテ1:15)と。
主イエスへの信仰(信頼)は弟子たちを宣教に導き、不信仰は弟子たちの唇を閉ざす。
信ずる者には生活のしるし(生きた証し、愛のわざ)が伴う(17~18、20)。ここで挙げられている「しるし」には使徒の働きに記されている超自然的なものも含まれているが、特に私たちが注目すべきは「新しいことばで語り」ということであろう。福音を語り、愛のことばを語り、慰めを語り、賛美を歌い、祈りのことばをささげる。私たちの舌はどうしようもないものであり、ヤコブによれば「下は休むことのない悪であり、死の毒で満ちてい」る(ヤコブ3:8)。しかし、そんな私たちも主イエスへの信仰を与えられ、賛美し、祈る者とされたのである。「苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい」(ヤコブ5:13)。
生ける復活の主イエスに信頼しよう。主イエスへの信頼を通して、主ご自身と主のうちにある祝福が私たちに与えられ、主ご自身が私たちにおいて働かれる。

Ⅲ 全世界に、福音を
「十字架で私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日見によみがえられ、あなたとともに生きてくださるイエスこそ、あなたを救ってくださる救い主! すべての造られたものに、創造時以上の回復をもたらす救い主。主イエスを信じてください」(Ⅰコリント15:3~8)という福音を全世界に伝えよう(15)。
宣教は主イエスのみわざである。それゆえ、私たちは主を信頼し、主に献身する。
「全世界」という世界大の視野を持とう(15、20、短い補遺)。「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14)。
私たちキリスト者は全員、宣教の使命を果たすべく遣わされている。ただし、現場に行って働くように遣わされている者はその一部であり、多くの者は「遣わす側」として奉仕する。宣教師、宣教者たちのために祈り、献金し、励ましのメッセージを送り、一時的に戻ってきたときにはもてなすという形で。
同時に、宣教を足元の世界かもら始めたい。殻に閉じこもった状態(ヨハネ20:19、26)から一歩踏み出し、身近な方々に福音を伝えよう。その方々を覚え、祈り、愛し、福音を分かち合うのである。

主があなたを無限に愛していてくださるという福音を、日々自分にまず語ろう。主の愛の御手に触れていただきながら、主の福音宣教への情熱に心合わせ、愛をもって福音を伝えさせていただこうではないか。