礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2018年6月17日 説教アウトライン】 「忍耐と励ましの神が」 ローマ人への手紙 15:1~6 ローマ教会はユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、富者と貧者、強い人と弱い人など、さまざまな人から成っていた。「信仰」すなわち“キリストによる解放・キリスト者の自由の確信”の「弱い人」(14:1,2)は、断肉・菜食、祭日・断食日重視の生活をする「厳粛主義者」であった。一方、“キリストによる解放・キリスト者の自由の確信”が明確で「強い人」は、断肉・菜食、祭日・断食日重視に縛られない「自由主義者」(パウロもこの立場)であった。この両者間に、前者が後者をさばき、後者が前者を見下すといった緊張関係があった(14:1~2)。パウロは彼らに、互いにさばき合うのでなく、同じ主キリストに属する者として受け入れ合うよう勧告する(14:1~15:13)。 本日の個所では、新たにキリストの模範が示される。 Ⅰ 力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきである(15:1~2) 前章の信仰の「弱い人」と「強い人」との対立が、「力のある者」と「力のない人」との対立に置き換えられ、パウロは自分を強い者の一人に組み入れて、「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべき」であると勧める(1)。 イエス・キリストにおいて現わされた神の無条件・無制限の愛を深く受けとめ、“キリストによる解放・キリスト者の自由の確信”に堅く立つことのできる「力」や「強さ」は、主から与えられている恵み以外の何ものでもない。ならば、その強さや力を「自分を喜ばせる」自己満足のために用いるべきではなく、徹底的に弱い人の弱さを担うため、他者を生かすために用いるべきである。 「担う」とは、根が枝を「支える」(ローマ11:18)ように、根底から支え担うことである。弱い人の弱さを見下さず、弱い人と対話しつつ、その弱さに忍耐し、かつ、弱い人に霊的栄養を与えて弱さから強さに成熟できるように助けていくのである。「聖霊によって心に注がれる神の愛」(ローマ5:5)をもって愛し続け、福音の恵みと約束を語り続け、祈りつつ、相手の立場に立って共に歩むことである。 力のある者とさせていただいている者は「一人ひとり」、その強さを、弱い人と「キリストのからだ」(教会共同体)の「霊的成長(直訳は「建て上げ」)のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」(2)。霊的成長こそ、兄弟姉妹に真の喜びを与えるものである。 Ⅱ キリストの模範(15:3~4) パウロはこの世の生涯を歩まれたイエス・キリストの生き方を示し、キリストの模範に倣うように勧める。 「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした」(3)。キリストは自分のためには奇跡を一つも行わなかった。キリストの生涯は、自分をささげて、他者(罪人)を生かす精神で貫かれていた。 「あなたを嘲る者たちの嘲りが、私に降りかかった」(詩篇69:9)という聖句は、イエス・キリストを指し示すものであり(ヨハネ2:17、15:25、19:28、使徒1:20)、私たちにキリストの模範を指し示す。つまり、キリストのように、私たち力のある者たちは弱い人の弱さを負い、彼らが受ける屈辱をともに負うようにとパウロは勧告する。 「かつて書かれたもの」(4)、すなわち旧約聖書すべて、私たちを教えるために書かれたのであり、さらに、「聖書が与える忍耐と励ましによって」、自己犠牲の生活の中にあって私たちに希望を持たせるためのものである。 Ⅱ 忍耐と励ましの神(15:5~6) 「忍耐と励ましの神」(5)が、聖書を通して私たちに忍耐と励ましを与えてくださる。それは「互いに同じ思いを抱」(5)いて、「心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえ」(6)るためである。 キリストの模範に倣って、自己犠牲(自己をささげ、他者を生かすこと)に徹することによって、強い者と弱い者とは対立は乗り越えられ、心を一つにし、声を合せて、神をほめたたえるお互いとされる。真の教会は、聖書の教えとキリストの模範に導かれて、その一致を礼拝において表現する。 ”Not Homogeneous Unit, but heterogeneous Unity”(均質的一体でなく、異質的一致)。互いに違っていながら、私たちは神の栄光と神への愛を目指して一致していく。こうしてこそ、神の国の豊かさと輝きが証される。御父・御子・聖霊の三位一体の愛の神が、忍耐と励ましの神として私たちと共に生きてくださることを覚えたい。 |