礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年6月10日 説教アウトライン】 「良心と信仰の自由」 ローマ人への手紙 14:19~23

12章以下はキリスト者生活の教えである。それは神との人格的交わりの中で他者と共に生きる生活であり、何をするにも「主のために」「感謝して」(14:6)、兄弟姉妹に対する愛によって歩む生活(14:15)である。
ローマ教会内には、断肉・菜食、祭日・断食日重視の「厳粛主義者」と、「それ自体で汚れたものは何一」なく(14、マルコ7:19)、キリスト者は主にあって旧約の食物規定からも解放されているので(コロサイ3:16~17、ヘブル9:10)、何でも自由に食べることができると確信する「自由主義者」(パウロもこの立場)があり、両者の間に緊張関係があった。パウロは彼らに、互いにさばき合うのでなく、受け入れ合うようにと勧告する(14:1~15:13)。

Ⅰ つまずきを与えず、むしろ、お互いを建て上げることを追い求める(14:18~21)
「平和」、すなわち、互いの平和な交わりのために役立つこと、益となることを追い求めよう。また、「お互いの霊的成長」、すなわち、「お互いを建て上げること(“オイコドメー”というギリシャ語の原意は「家を建て上げること」)」に役立つこと、益となることを追い求めよう(19)。単に個々人の平和と霊的成長だけでなく、それ以上に「お互いの」、すなわち共同体としての教会の一致と霊的成長が強く求められている。ともに主に礼拝をささげ、主の恵みを受け、主を愛し、主の御前に一致すること。そして、各人に与えられている多様な霊の賜物を用いて互いに仕え合うことにより、皆がいよいよ主を愛し、人を愛する者へと霊的に成長させられ、キリストの身体としての教会が建て上げられていくこと。その方向に向けて益となることを追い求めるのである。
「食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません」(20)。「神のみわざ」とは教会である。食べ物のことで、「神がご自分の(御子の)血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)を傷つけ破壊することがあってはならない。「すべての食べ物はきよいのです」(20、14、マルコ7:19、Ⅰテモテ4:4~5)。しかし、それを食べることで人につまずきを与える人の場合には、それは悪となり、悪の武器となるる。だから、当時のローマ教会では、「肉を食べず、ぶどう酒を飲ま」ないことは、「あなたの兄弟がつまずくようなことをしない」ことになるので「良いこと」(21)であった。
私たちはキリスト信仰による自由を享受しつつも、愛による配慮にも生きるというバランスが大切である。その時、教会の徳を建て、お互いを建て上げることになる。

Ⅱ 信仰から出ていないことは、みな罪です(14:22~23)
「信仰」とは、ここでは「霊における確固とした決断」「固い確信」という意味で使われている(カルヴァン)。自分の行動(例えば、肉を食べるかどうか)に関しての内なる「確信」は非常に大切である。それは単なるフィーリングや直感ではなく、「神の御前で」(22)、祈りつつ、みことばに照らし、自分の頭でよく考えて吟味し、自分でこれで「良い」と認めたところの確信である。
「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」(22b、新共同訳)。しかし、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められる」(23a、新共同訳)。「信仰(確信)から出ていないことは、みな罪です」(23)。食べる、飲むといった日常的な営みに至るまで、確信に基づいて行うことが大切であり、良心の声に反して行われる行いは、決して正しくないし、その人を大きく動揺させる。だから相手にそのような動揺をさせないようにしたい。「兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです」(21)。

それぞれの確信は大切にしつつも、「もっとも大いなるものは愛」(Ⅰコリント13:13)というさらに大きな確信に立つことができるようにと願うものである。