礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【説教アウトライン、2018年6月3日】  「あなたがたより先に」   マルコの福音書 16:1~8

驚き恐るべきことが起こった。十字架で死んで、墓に葬られたイエスはよみがえられた!

Ⅰ 墓の入口をふさぐ非常に大きな石が転がしてあった(16:1~4)
女の弟子たち(1)は、イエスが十字架で息を引き取り(15:40)、墓に埋葬されるのを見届けた(15:47)。岩に掘られた横穴の墓の入口を「非常に大きな石」(4)がふさぎ、イエスの埋葬は完了した(15:46)。彼女たちはイエスの死と埋葬の証人である。
埋葬は安息日直前の慌しい中で行なわれ、彼女たちが手出しする余地はなかった。今の土曜日の夕方、安息日が終わると、彼女たちは突き動かされるように香料を買い求め、油に混ぜ、イエスの遺体に塗ってさし上げようと準備した。すでに遺体には十分に香料が塗られていたのを知っていたのに(ヨハネ19:39~40)。
明け方にイエスの遺体がある墓に向かった彼女たちは、冷たい現実があることも知っていた。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」(4)。答えは「ノー」であった。墓の入り口をふさぐ非常に大きな石は、「イエスの完全な死」と「イエスとの別離(分離、断絶)」を象徴していた。ところが、石はすでに転がされていたのである(4)。驚きであった。

Ⅱ 十字架につけられたナザレ人イエスはよみがえられた(16:5~6,8)
しかも、墓にイエスの遺体はなく、代わりに真っ白な衣をまとった「青年」(5)すなわち「御使い」(マタイ28:5)がいたので、「彼女たちは非常に驚いた」(5)。青年は平然と言う。「驚くことはありません」 (6)。 全能の神にとっては驚くようなことは何もなかった。
「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう」(6)。御使いはそう言うと、イエスの遺体がないことを示す。だれかが盗んだ? やっとイエスを葬り去った敵たちも、臆病な弟子たちも(14:50、ヨハネ20:19)、そんなことをするはずない。
「あの方はよみがえられました!」。ナザレで育ち、地上で活動し、身体をもって十字架で処刑された実在の人物イエス、この同じイエスが全人格をもって、今も生きておられる! 彼女たちは御使いのことば(神のことば)によってイエスのよみがえりを納得。それで、「彼女たちは…そこから逃げ去った」。「震え上がり、気も動転し」、「だれにも何も言」えぬほどことばを失った。本当に「恐ろしかった」のである(8)。 イエスの復活という事実に彼女たちは「驚き、恐れ」るばかりであった。空(から)の墓が不可解ゆえの「驚き、恐れ」ではなく、空の墓の理由であるイエスの復活を納得したゆえの「驚き、恐れ」であった。
『マルコの福音書』は「驚き、恐れ」の福音書である。人々がイエスの神としての権威、威光、素晴らしさ、すごさに触れた時の自然な反応を「驚き、恐れ」で表現する(4:41、5:15,33,42、6:50、9:6、10:32)。イエスの死からの復活は最も驚き恐るべき出来事、ものすごい神のわざ。イエスの死と埋葬の目撃証人である彼女たちの「驚き、恐れ」こそ、イエスの復活を雄弁に証ししている。

Ⅲ イエスは先にガリラヤに行き、そこで弟子たちとペテロを待っておられる(16:7)
イエスは先に「ガリラヤ」に行き、待っておられ、再び出会ってくださる! ガリラヤは、弟子たちが日常生活を営んでいた場であったし、イエスと出会い、イエスに召された地、いわば、イエスとの歩みの振り出しでもあった。イエスが先に「ガリラヤ」に行って、弟子たちを待っておられ、再び出会ってくださる! 弟子たちを赦し、愛し、再び受入れ、また一緒に歩み出してくださる。このメッセージは、豪語しつつも(14:31)三度イエスを知らないと言ったペテロ(14:66~72)には全く「驚き、恐れ」そのものであった。底無しの赦しの愛こそ驚き恐るべきものである(詩篇130:4,7)。
失敗しても倒れてもなお原点に立って待ち、何度もやり直させ、立ち上がらせてくださる復活の主イエスこそ、実に驚き恐るべき方ではないか。

イエスが神の子であり、キリスト(救い主)であるという「福音」(1:1、8:29、15:39)、その「福音のはじめ」(1:1)である『マルコの福音書』は、復活の主イエスと弟子たちの新たな出会いを語らず、16:8で、からの墓と女たちの驚き恐れで終わる。イエスは復活されたが、復活のイエスと弟子たちの再会はカットされているとは、意味深長である。復活の主イエスとの出会いは、むしろ、あなた自身が身をもって経験するように、ということなのである。
パウロは福音を、イエスの十字架の死、墓への葬り、イエスの復活、そして、復活のイエスの弟子たちへの顕現と4つにまとめたが(Ⅰコリント15:1~8)、復活のイエスの弟子たちへの顕現は2000年前の「はじめ」の時だけのことではなく、今日も引き続き起こっている出来事、現在の各自の日々の出来事なのである。イエスは復活し生きておられ、イエスの教えとイエスのみわざも過去だけのことではなく、今の私のためのものとなっている。復活のイエスは、その教えとみわざを携えて、今日私たちのところに来てくださっている。私たちは福音書を読み、福音を思い巡らしながら、聖霊において臨在される復活の主イエスと日ごとに出会い、「神の子イエス・キリストの福音」を、引き続きを身をもって体験させていただくのである。
「わたしについて来なさい」。私の救いのためにすべてを成し遂げてくださった復活の主イエスが、私たちをまねき、私たちに先立ってくださる。