礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年5月20日】   「聖霊がくだる」   使徒の働き 2:1~47


 過越の祭りから50日後の七週の祭り・五旬節(ペンテコステ)の日に起こった聖霊降臨の出来事である。聖霊降臨を祈り待望していた120名の者たちは、聖霊を注ぎ満たされ、いろいろな国ことばで「神の大きなみわざ」(イエスの十字架と復活と昇天、それらのイエスの御業のゆえに信じる者に与えられる救い。すなわち、福音)を語り出した。エルサレムに集まっていたユダヤ人たちはみな驚き、ある者たちは「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と誤解した。そこでペテロをはじめとする十二使徒たち(14)は人々に語りかけ、説教をした。

Ⅰ 旧約聖書のヨエルの預言の成就(2:16~21)
ペテロは代表して、まず、この聖霊降臨のできごとは、旧約のヨエルの預言の成就であると語る。今や終わりの時代(新約時代)が始まった。旧約では特定の人にだけ注がれた聖霊が、今やすべての神の民(キリスト者)に注がれる。それで、120名の者がみな、いろいろな国ことばで「神の大きなみわざ」を語り出したのである。
このヨエルの預言のことばで注目したいことがある。聖霊を注がれると預言する、ということである(18)。「預言」とは神のことばを預かり語ること。そして、神のことばの中心である福音を語ること。説教は預言である(Ⅰコリント14章)。みことばを教えること(CS、教育)、また、預言のことばである説教を真剣に聞くという礼拝行為も一種の預言である(Ⅰコリント14:24「みなが預言をするなら」)。互いに福音と福音の恵みを分かち合うことも預言である。賛美することも預言の一つである(Ⅰサムエル10:5)。預言とは、ほんとうに広い意味があるが、どんな場合でも、聖霊を注がれ、聖霊に満たされて、語り、聞き、歌わなければ、力も恵みもインパクトもない。「聖霊よ、来たりませ」。 
このヨエルの預言のことばの締めくくりは、「しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」(21)。終わりの時代は聖霊がキリスト者すべてに注がれるすばらしい時代であるが、また、いろいろな患難もある。しかし、すべての者の救い主として神が差し出したもう主イエスの名を呼ぶ者は、みな救われる。「主よ。あわれみたまえ」。

Ⅱ あなたがたがイエスを十字架につけて殺した。悔い改めなさい!(2:22~39)
続いて、ペテロらは、主イエスの十字架の死と主イエスの死者の中からの復活、主イエスが神の右に挙げられ、そこから聖霊をお注ぎになったことを語る。注目すべきは23節と36節のことばである。
「神が定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです」(23)。
「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36)。
この説教を聞いているユダヤ人の中には、50日ほど前に主イエスの十字架の現場にいて、「イエスを十字架につけろ」と叫んで、主イエスを十字架へと追いやった者もいたであろう。しかし、ここにいた多くの聴衆は、主イエスの十字架刑の現場にはいなかったであろうし、いたとしても「イエスを十字架につけろ」とは言わなかったかもしれない。にもかかわらず、「あなたがたは十字架につけたのです」と言われている。たまたまあそこにいた群衆が「イエスを十字架につけよ」と叫んだかもしれないが、全人類がイエスを十字架につけたということなのである。
“あなたがたがイエスを十字架につけて殺した”、“全人類がイエスを十字架につけた”、すなわち、“あなたが、私が、イエスを十字架で殺した”と言う。神を殺すこと以上の罪はない。究極の自己中心である。十字架で死んでいかれたイエスのお姿は、人類の、そして、私の最大最深、極悪の罪を明らかにしている。
私たちは取り返しのつかないことをしてしまったのか。私たちには神の重い永遠のさばきと絶望しかないのか。そうではない。
「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」(24)。
「このイエスを、神はよみがえらせました」(32)。
そして、「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」(33)。
主イエスは永遠のいのちによみがえらされ、天に挙げられ、聖霊を注ぎ、聖霊において私たちのもとに来てくださった。さばき罰するためではない。祝福し、平安を与えるため(ヨハネ20:19)、罪の赦しと永遠のいのちを与えるためである。
復活の日の夕方、イエスを裏切ったと脅えている弟子たちのところに来られた主イエスは、一言も文句も言わずに「シャーローム」「平安あれ」と言ってくださった(ヨハネ20:19)。
私がイエスを十字架で殺した。私の罪がイエスを十字架で殺した。罪人の私がイエスを十字架で殺した。しかし、主イエスはよみがえり、天に挙げられ、そこから聖霊を注ぎ、聖霊において私のもとに近づき来られた。何のために、罪の赦しと、永遠のいのちを与えるために。主イエスは言われる。「平安あれ。あなたはわたしを殺しました。でも、あなたの罪はすべて、わたしを殺した最も大きな罪を含めてあなたの罪はすべて、わたしが負い、そのさばきを受けました。あなたは赦される。あなたを赦します。また、わたしは永遠のいのちを与えます」と。
それゆえ、ペテロは答える。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38)。悔い改めて(“方向転換”。考えを変え、罪を認め、新たに神に向かって歩み出す)、イエスを信じ、イエスの名を呼んで(22:16)救われ(罪の赦しと永遠のいのちを受け)、その証しとしてバプテスマを受け、キリストのからだ(教会)に加えられ、新しい神の民である教会家族の大切なひとりとして、聖霊に導かれる信仰生活へと進みなさい、と。
その日、3000人がバプテスマを受け、教会に加えられ、聖霊による歩みを始めた。

罪ある私がキリストを十字架につけて殺した。しかし、神はこの罪深い私をキリストとともに殺し、キリストにおいて「ともによみがえらせ」てくださった(エペソ2:6)。そして、聖霊にあってキリストが私のうちに生きてくださる。
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19~20)。
聖霊降臨以来、天のキリストは聖霊において、信じる者の内に生き、信じる者を通して生きて働いてくださる。聖霊の満たしをいよいよ求めていきたい。