礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年5月13日】
  「神の国は聖霊による義と平和と喜び」   ローマ人への手紙 14:13~19


12章以下はキリスト者生活の教えである。キリスト者は縦軸のある人生を生きている。キリスト者生活は神との人格的交わりという縦軸をしっかり保持し、その神との人格的交わりの中で他者と共に生きる生活である。何をするにも「主のために」「感謝して」(14:6)行ない、兄弟姉妹に対する愛によって歩む生活である(14:15)。
ローマ教会内には厳粛主義者(断肉・菜食、祭日・断食日重視)と自由主義者がおり、両者の間に微妙な緊張関係があった。パウロは互いにさばき合うのでなく、兄弟姉妹として愛をもって受け入れ合うように勧告する(14:1~15:13)。

Ⅰ 弱い人への愛と弱い人の良心のために、自分の自由は放棄できる真の自由(14:13~16)
キリストによる解放・キリスト者の自由の確信が「強い人」は、何でも自由に食べることができると信じ、実際にどんな肉も自由に食べていた。一方、キリストによる解放・キリスト者の自由の確信が「弱い人」(自由度が狭い人)は、いろいろな理由から、汚れた肉があると考え、肉を口にしなかった。また、ユダヤ教の祭日を遵守している者もいた。そのような両派がいる教会の交わりにおいて、「強い人」が自らの自由の確信を断固主張し、その確信に基づいて行動するならば、弱い兄弟姉妹に対して「妨げ」や「つまづき」を置くことになりかねない(13)。
たしかに、イエスは「すべての食物をきよいとされ」(マルコ7:19)、パウロも使徒の権威をもって「それ自体で汚れているものは何一つありません」(14)と断言する。しかし、「何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなの」(14)であると例外も認める。「これは汚れている」とする人は、その人の良心をもってそう認めるのであるから、その良心の判断に応じた行動をしなければ、その人の人格(的統一)は破壊されてしまうのである。聖書は人間の良心を大切にする。良心の自由をとても大事なこととして尊重する。もし自分の良心に従って行動しないと、その人はまことに苦しい。良心に反する行動を強制されたり、良心に反する行動を誘惑されて行なってしまったら、その人の心は混乱し、自由ではなく大きな罪責感にとらわれ、人格が破壊され、信仰を失うことにもなりかねない。「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」(15)。
強い人が「新約の時代の今は、どんな肉も自由に食べられるのだから、君も肉を食べるべきだ」と主張し、肉食を強い、弱い人も何気なく食べてしまったらどうだろう。その弱い人は食べてしまった後で、すごく心が痛む。良心に反することをしてしまったからである。私たちはキリスト者は、キリストによって解放された自由の確信を大切にしなければならない、相手に自由を押しつける「自由のパリサイ人」となってはならない。律法のパリサイ人は相手に律法を守らせようとするが、自由のパリサイ人は相手に自分が与えられている自由を押しつけ、自分と同じように考え行動するように強制する。そうして、相手の良心の自由を抑圧し、弱い良心を踏みにじる。「あなたがたが良いとしていること」(信仰の強い者が享受しているキリスト者の自由)のゆえに「悪く言われないようにしなさい」(16)。
自分の自由を兄弟姉妹への愛のゆえにあえて放棄できることこそ、本当の信仰による自由なのである。聖霊が与えてくれる自由はそういうものである。「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)。

Ⅱ 神の国の現臨であるキリストの教会(14:17~18)
 同じ主イエスを信じるキリスト者同士でありながら、食べたり飲んだりすることなど、生活の様々なことについて、それぞれの良心に基づく確信に違いがある。良心の確信にしたがって肉を自由に食べる者もいれば、良心にしたがって肉を食べない者もいるというように、行動の仕方に違いがある。互いにさばき合わないようにしよう。自分の確信を断固主張し、それに基づく行動に固執して、弱い人に対する妨げやつまずきを置かないようにしよう。そう勧めたパウロは、さらに言う。
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです」(17)。
神の国(マタイでは「天の御国」)とは、「神の支配」の意味である。イエスは「神の国は近づいた」、すなわち、「神の国はもう来ている」(マルコ1:15)と言った。2000年前、神の愛により遣わされたイエスの出現において、神の国は地に到来し(マルコ1:15)、実現し始めたのである。しかし、神の国の完成はキリストが再臨する終わりの日である。
「神の国は目に見える形で来るものではありません。…神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)。イエスがおられる交わりのただ中に、神の国はある。キリストがそこに臨在される所が神の国なのである。キリスト者とともにイエスがおられ、キリスト者のうちには聖霊においてイエスが住んでおられるのだから、キリスト者のいる所にはどこにでも神の国があると言えよう。家庭、職場、社会、教会…に、神の国は来ている。しかし、キリスト者は死ぬとその霊はキリストのもとに召され、霊において御顔を仰ぎ見る。だから、そこには、もっと豊かに神の国がある。キリスト者は死んだら天国に行くというのは、すでにこの世で神の国に生かされているキリスト者が、霊において神の国のさらなる豊かさの中に受け入れられていくということである。そして、キリスト再臨の日には、キリスト者に復活のキリストと同じ復活のからだ、栄光のからだが与えられ、新天新地で永遠に生きる。こうして神の国は完成し、永遠に続き、日々豊かになって行く。
「神の国は聖霊による義と平和と喜び」である。神の国の本質的特徴は何か。それは、聖霊によって、キリストへの信仰を通して与えられる神の「義」(3:21~24)、キリストの十字架の血による神との「平和」・人との「平和」、神の愛による「喜び」である(5:1~5)。その義は「自己義認」の義ではなく、信仰を通して、聖霊によって与えられる義、死に至るまで神に服従され、十字架で贖いを遂げ、復活されたキリストの義である。ただ恵みとして与えられた義である。だから、神の国には自己義認、自慢、自分の功績の誇示は本来あり得ないのである。また、キリストの十字架の血によって作られた神との平和・人との平和が神の国の本質的特徴であるから(エペソ2:13~18)、神の国には争い、闘争はふさわしくない。また、神の国は本来、聖霊によって神の愛が注がれ、苦難の中にも喜びがあふれている所であるゆえ(5:1~5)、そこには本来、恐れはあり得ない。
「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23)。教会はキリストのからだ(エペソ1:23)、教会こそキリストの支配する神の国の中核であり、神の国の鮮やかな現臨の場である。教会は、神から与えられる義と平和と喜びのゆえに、互いに赦し合い、仕え合い、喜び合う所で、世の驚きにほかならない。そして、神の国としての教会は、愛に結びついた自由が支配する喜びの家なのである。

神の国の聖霊による義と平和と喜びが、私たちを通して、いよいよ教会の中に豊かになり、家庭と職場と社会と世界をうるおすようにと願う。そのことを意識し、そう願いつつ「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです」(18)。私たちは神の国を喜ぶ神の国の民、神の国を証しする神の国の大使なのである。