礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年5月6日】   「死にて葬られ」   マルコの福音書 15:42~47

イエスの葬儀(埋葬)の場面である。30数年前の家畜小屋での誕生の時と同じく、参列者はわずかで、実に淋しい。しかし、そこに神の栄光が輝いていた。

Ⅰ アリマタヤのヨセフ
葬儀(埋葬)を取りしきったのはアリマタヤ出身のヨセフであった。彼はサンヘドリン(71人からなるユダヤの宗教議会・裁判所)の「有力な議員」(43)で、尊敬され、大きな影響力を持つ人であった。そして、「自らも神の国を待ち望んでいた」(43)。罪の現実、霊的暗黒を大いに悲しみ憂い、メシヤ(救い主)による大いなる解放・救い、光の時を待望していた。また、「金持ち」(マタイ27:57)でもあった。「善良で正しい人」(ルカ23:50)で、「議員たちの(イエス殺害)計画や行動には同意していなかった」(同51)。しかし議会で公然と反対はせず、イエスを死刑に定めた会議はたぶん欠席(14:64)。彼は「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」(ヨハネ19:38)。
十字架刑死者の遺体は野ざらしにされて猛禽に食われるか、犯罪者共同墓地に埋葬されるかであった。しかし、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3:11)。神はヨセフの霊を奮い立たせ、彼を用いられた。彼の地位と財産はローマ総督ピラトを動かすことができた。彼は「勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た」(43)。彼は「まだだれも葬られていない」(ルカ23:53)、「自分の新しい墓」(マタイ27:60)を持っており、そこにイエスを葬った。「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた」(イザヤ53:9)。ヨセフこそイエスの葬儀(埋葬)をするに一番ふさわしい人物だった。神は彼を用いられた。
しかし、恐れていた隠れ弟子ヨセフにとって、それは大きな決断であった。「勇気を出して」(43、新改訳第三版は「思い切って」)とある。リスクは大、大きな犠牲を覚悟しなければならなかった。非難と中傷、名望と地位の喪失、冷遇、財産もかなり使う、いや、命の危険さえあった。それでも、ヨセフは勇気を出して、思い切って行動を起こした。それは神の摂理のわざであったし、神の彼への恵みであった。十字架のイエスをずっと見続け、最後に信仰告白に至った「百人隊長」(39)と同様、ヨセフも十字架のイエスを見て変えられたのである。十字架のイエスが、密かな弟子を公然たる弟子に変えた。
私たちも十字架のイエスをじっくり黙想しよう。十字架上でのイエスの七つのことばを思い起こし、使徒たちの十字架の意味を説くことばを黙想しよう。
「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため、そのうち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ2:24)
「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」(ガラテヤ2:19~20)
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世はわたしに対して死に、私も世に対して死にました」(ガラテヤ6:14)。
十字架のイエスを黙想し、十字架のことばを思い返し、十字架のイエスを観想することを通して、私たちもイエスのために犠牲を払う者へと変えられていく。遅ればせながらもそうあらせていただきたい。

Ⅱ イエスの葬りは、イエスの死の確かさとイエスの復活の確かさを確証するもの
「死にて葬られ」(使徒信条)、「最も大切なこと(福音)…キリストが罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、現れたこと」(Ⅰコリント15:3~5参照)。
イエスがヨセフの墓に葬られたことは重要であった。死刑執行のプロ(百人隊長)による死亡診断(44~45)の結果のイエスのおからだの十字架降下と埋葬であった。これら一連のことが行われたことは、イエスが仮死状態だったのではなく、完全に死んだことを意味している。
また、イエスの埋葬とその墓の位置をしかと見届けた女たち(47)が、三日目にはその墓が空っぽであったことを確認した事実(マタイ28:6、ルカ24:3。ヨハネ20:6~8も参照)は、死んでその墓に葬られたと同じイエスが確かに復活したことを確証する。

イエスほど死を恐れた者はいない(ルター、マルコ14:33~34)。神との断絶の恐ろしさをだれよりも知っていたからである。イエスは罪がまったくないのに、十字架の上で、その恐ろしい死を、神からの見捨てを、私たち罪人のかわりに刑罰として受けてくださったのである(15:34、ローマ8:3)。イエスは私たちのための罪の贖い(償い)の業を成し遂げ、そのような方として、御父に霊をゆだね、肉体においても死んで(ヨハネ19:30)、丁重に墓に葬られた。こうして、神の怒りと罪への処罰は終わり、神の豊かなあわれみがイエスの墓を包んだ。
人となられた神の御子イエスは、死と葬りに至るまで、ご自身の生の全体で、罪ある私たちに連帯してくださった(マタイ4:13~17)。そして、「死人のうちよりよみがえられた」。この主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに結ばれた者は、この方にあって死んで葬られた者である(ローマ6:3~4)。バプテスマを受けて、キリストと結ばれていることが確証された私たちキリスト者は、「キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」(ローマ6:4)。罪ある私たちはキリストともに死んで、葬られてしまった。そう感じられなくともそうなのである。そして、キリストともに死んで葬られたとすれば、必ずキリストの復活にもつながっている。復活のキリストのいのちに結ばれ、新しい歩みが始まる。「私たちは、・・・キリストともに葬られたのです。それは、・・・私たちも、新しい後に歩むためです」(ローマ6:4)。古い私はキリストにおいて葬られ、今はキリストと共にある新しい私が生きているのである(ガラテヤ2:19~20)
私たちはいつか必ず肉体の死を迎える。しかし、その時、私たちはイエスとつながって死に、イエスとつながって葬られる。私たちは死のときにも、葬りのときにも、イエスとともにある。私たちの人生の最期の死と葬りは、一巻の終わりではなく、イエスにつながり、イエスの死と葬りにつながって死んで葬られるので、必ずやイエスの復活につながり、新しい始まりとなる。私たちの人生最期の死と葬りは、「罪との死別」そして「永遠の命への入り口」なのである(『ハイデルベルク信仰問答』42)。ハレルヤ!