礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年4月29日】  「エサウとヤコブ」   創世記 25:19~34(27:1~28:5)

「長子の権利」とその権利に基づいて与えられる「祝福」を軽んじてはならない。

Ⅰ 主に祈願したイサク、主のみこころを求めたリベカ(25:19~26)
イサクは40歳でリベカと結婚した(20)が、子どもが与えられなかった。イサクは主に祈った(21)。主なる神はイサクの父アブラハムに“あなたとあなたの子孫によって地のすべての部族が祝福される”と約束しておられた(創世記12:2~3、13:15~16、15:5、17:4~8、22:17~18)。それゆえ、アブラハム家にとっては、主の祝福のご計画が展開されるためには、イサクに子どもが与えられることが必要であった。イサクは単に私的なこととして子どもの誕生を願ったのではなく、主の栄光のために、主のみこころのために、世界の祝福と救いのために、子どもが生まれるように主に祈ったのである。私たちも祈るとき、その願いが聞かれることがただ自分の私的な祝福を越えて、自分の家族のため、教会のため、世界の益となり、その願いが聞かれることを通して、神のご計画(みこころ)が実現し、祝福と救いが多くの人にもたらされるようにと願って、「みこころが行なわれますように」と祈ることが大切である。
イサクが60歳のとき、「主は彼の祈りを聞き入れ」(21)、双子のエサウとヤコブを授けてくださった(26)。リベカは胎内で双子がバトルしているのを身に感じ、「主のみこころを求めに出て行った」(22)。主は「二つの国があなたの胎内にあり、…兄が弟に仕える」と、みこころを示された(23)。自分の身近に起きている問題も大胆に主の御前に持ち出し祈ろう。主が最善の導きと解決を与えてくださるように、また、この事にどんなみこころ、どんな意味があるかをも祈り求めたい。
イサクとリベカはそれぞれ真剣に主に祈った。しかし、二人で対話し、分かち合い、共に祈ってはいない。この後の(自分の意志や感情を優先させることによる)イサク家の混乱の一因は、ここにあるのではないか。

Ⅱ 長子の権利の重大さを知っていたヤコブ、長子の権利を軽んじたエサウ(25:27~34)
旧約においては、長子は親にとっての「父の力の初穂」であり、「二倍の取り分」を相続した(申命21:16~17)。特にアブラハム家の三代目の長子は、アブラハムに約束された祝福を一手に受け継ぐ存在であり、神の祝福の計画が実現していくための大切なパイプ役であった。
ヤコブは長子の権利の重大さを知っていたし、長子の権利に基づいて受ける神の祝福の絶大さも知っていた。「兄は弟に仕える」という神の不思議なご計画も母から聞いていたであろう。ヤコブは主の約束を信じ、主にゆだね、主の時を待てばよかったのである。ちょうど、ダビデが自分がいずれ王になるという主のみこころを知らされていたのに、サウル王を殺すチャンスがあっても決して殺すことなく、じっと時を待ったように。しかし、ヤコブは主の約束を信じて、主にゆだね、主の時を待つのではなく、人間的策略をもって、兄エサウの餓えに乗じて長子の権利を横取りし、目の見えない父をだまして長子の祝福をだまし取った。このヤコブのやり方は決してほめられるものではない。ヤコブはその後、長い逃亡生活を余儀なくされ(28:5)、母リベカに再会することはなかった。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)。
一方、エサウは「淫らな者、俗悪な者」(ヘブル12:16)で、長子の権利を軽蔑し、パンとレンズ豆の煮物と引き換えに、長子の権利をヤコブに売って(譲って)しまった。 
人間的にはエサウの方が裏表のない善人なのかもしれない。しかし、主ご自身と主の祝福の約束をないがしろにした。ヤコブはずるがしこい人で、それゆえに試練やわざわいも多かった(創世47:9)。しかし、それでも、ヤコブは主ご自身と主の祝福の約束に心を向けていた。私たちの心がどこを向いているかが常に問われているのである。


真の長子は主イエス・キリストである(ローマ8:29、ヘブル2:11~12)が、信仰によってイエスにつなげられた私たちも神の子ども(長子イエスとともなるもの)としての特権を与えられている(ヨハネ1:12)。私たちはアブラハムの祝福にあずかって、約束の聖霊を受け(ガラテヤ3:14)、聖霊がもたらしてくださる神の子どもとしての救い(「自由」ローマ8:15,21、ウェストミンスター信仰告白20:1)を享受する。

『ウェストミンスター信仰告白』 第20章「キリスト者の自由と良心の自由」、第1節「キリスト者の自由」
「キリストが福音の下にある信仰者たちのために獲得してくださった自由とは、彼らが罪責と、神の断罪的怒りと、道徳律法の呪いとから解放されていること、そして、彼らがこの今の悪しき世と、サタンへの隷属と罪の支配とから、また、様々な苦難と害悪と、死の棘と、墓の勝利と、永遠の断罪とから救い出されていること、さらにまた、彼らが自由に神に近づいて、奴隷的な恐れからではなく、子どもらしい愛と自発的な心から、神に服従をささげることができることにある。すなわち、彼らはユダヤ人の教会がその下に置かれていた儀式律法のくびきから解放されていること、そして律法の下にあった信仰者たちが通常できたよりもずっと大胆に恵みの御座に近づくことができ、神の自由の御霊にもっと豊かにあずかることができるという点においてである。」

有名な写真がある。アメリカ合衆国第35代大統領のJ・F・ケネディが、ホワイトハウスの大統領執務室の机のの後ろで椅子にすわって執務をしている。その机の下からは、幼いJ・F・ケネディJr.が顔を出している。こんなことができるのは大統領の息子だけである。しかし、私たちはイエス・キリストに結ばれて全能の神、天の御父の息子・娘なのである。私たちは「神の子どもたちの栄光の自由」(ローマ8:21)を享受することが許されている。
私たちは、真の長子イエス・キリストご自身、このイエスへの信仰とイエスとの親しい関係、そして、イエスによって与えられている祝福、これらを決して軽んじてはならない。