礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年4月8日】 「私たちは主のもの」  ローマ人への手紙 14:7~12

12章以下はキリスト者生活の教えである。それは神との人格的交わりの中で他者と共に生きる生活であり、食べるにも飲むにも、何をするにも「主のために」「感謝して」(14:6)行なう生活である。
12:1~13:14はキリスト者生活の一般的勧告であったが、14:1~15:13は特殊な勧告が述べられる。ローマ教会内には、厳粛主義者(断肉・菜食、祭日・断食日重視)と自由主義者がおり、両者の対立が微妙な緊張関係をもたらしていた。パウロはそれぞれの問題そのものを取り上げて答えるのではなく、兄弟姉妹として受け入れ合うことが大切だと勧告する。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」(Ⅰコリント13:13)。「信仰」(教理、何を信じるか、使徒信条)、「希望」(何を神に祈り望むか、主の祈り)、「愛」(どのように愛するか、十戒)の基本においては一致をめざし、第二義的なこと(肉食の可否、特定の日を重視するか否か等々)においては自由を保ち、お互いをさばいたり、侮ったり、つまずかせたりしないで、すべてのことを愛をもって行い、ともにおられる主の臨在と栄光をあらわしていく。これがキリスト者共同体のあるべき姿である。

Ⅰ イエス・キリストは私たちの人生と永遠の主、私たちは主キリストのもの(14:7~9)
1~6節を受け、パウロは7~9節で、すべてのキリスト者にとっての極めて大切な生き方の基本を示す。キリスト者は「だれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいない」(7)。自己中心的な生き方、自分主義からの解放は、キリスト者に与えられた救いの祝福の重要な一面である。 
私たちキリスト者は、「主のもの」(8)である。それゆえ、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」ことが自然である。 
キリストはご自分のいのちを私たちの贖いの代価として死に渡され、「死んだ人にも生きている人にも、主となるために」死からよみがえられた(9)。キリスト者は、主キリストの完全な贖いによって買い取られ、主の所有とされた者、聖霊によって証印を押された者(エペソ1:13)である。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」(Ⅰコリ6:19)。「あなたがたは代価を払って買い取られたのです」(同6:20、7:23)。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」(同6:20)、「人間の奴隷となってはいけません」(同7:23)。私たちは主のもの!


Ⅱ 私たちはみな、神のさばきの座に立つことになる(14:10~12)
 それゆえ、「自分の兄弟をさばく」こと、「自分の兄弟を見下すこと」ことはやめなければならない。しかも「私たちはみな、神のさばきの座に立つことになる」お互いなのであるから(10)、自分を審判者とし、自分を尺度として兄弟をさばくのは愚かなことである。
私たちはみな、神のさばきに服さなければならない者である。神のさばきは義(ただ)しく公平であり、「すべての舌は、神に告白」せざるを得なくなる。私たちはその神のさばきの座において「神に申し開きする」(12)ことができるような生き方をしなければならない(Ⅱコリント5:10)。

私たちは主のもの、主が責任を持ってくださる。と同時に、主に責任を問われる存在でもある。私たちは、日々、主の御顔の前で、主と交わり、主の愛を受けながら、主に喜ばれるように、主のみこころに沿うように、その都度その都度、生きた判断をし、兄弟姉妹を愛していく。私たちは主のものなのだから。最期に『ハイデルベルク信仰問答』の第一問答を心に刻み、慰めとしたい。

『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)
「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
 答  わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救
い主 イエス・キリストのものであることです。
この方は御自分の尊い血をもって わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。
そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠のいのちを保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」