礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年3月11日】  「救いがもっと近づいている」  ローマ人への手紙 13:11~14

紀元386年、アウグスティヌスは「取って読め! 取って読め!」という子どもたちの歌声を聞いて、すぐに聖書を取って開き、ローマ13:13~14を読んだ。「たちまち光が私の心にあふれ、すべての疑いの闇は消え去った」(アウグスティヌス『告白』8:29)。彼は神へと回心した。
私たちも「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(12:2)。「主イエス・キリストを着なさい」(14)。
12章以下はキリスト者生活の教えである。それは神との人格的交わりの中で他者と共に生きる生活であり、「昼らしい、品位のある生き方」(13)、キリストの生き方である。

Ⅰ 「あなたがたは、今がどのような時であるかを知っています」(13:11)
今は「終末」の時である。それは、主イエス・キリストの「受肉・十字架・復活・昇天」と「再臨」によって明確に区切られている時である。それはまた、キリストの再臨という終わりに向かう時である。(復活のからだが与えられ、新天新地が到来し、神の国での永遠の生が実現する)「救いの完成」へと向かう時である。確かに「私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのです」。
また、「救い」の主キリストが私たちにもっと近づいていてくださる時でもある。天におられるキリストは私たちに向かって身を乗り出し、聖霊において日々ますます豊かに私たちに臨んでくださる。キリストの恵みは日増しに豊かになり、私たちを聖化して、ますますご自身の似姿に造り変えようと私たちに臨んでいてくださる。
だから「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ている」。私たちはキリストに向かって霊的に目をさまさねばならない。

Ⅱ 「夜は深まり、昼が近づいていて来ました」(13:12~13)
 「昼」(12)は、ここでは「夜明け」のこと。夜明け前こそ闇が最も濃い。私たちはともすれば、この世の罪や悲惨や不条理を見て暗澹たる思いになり、自分の罪深さに絶望する。しかし、救い主キリストは確かにおられ、私たちに近づき来られ、救いを成し遂げてくださる。「義の太陽」(マラキ4:2)であり、「光」であられるキリスト(ヨハネ8:12)とその救いに確かな希望を置いて進もう。
キリストは私たちをも「光」として召し、「光の子」として生かしてくださる(エペソ5:8)。それゆえ、夜明けに際し寝間着を脱ぎ捨てるように、「闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけよう」(12)。「闇のわざ」は、真の自己愛に反する「遊興や泥酔」、真の異性愛に反する「淫乱や好色」、真の隣人愛に反する「争いやねたみ」の生活である(13)。
それらに替えて、「光の武具」、すなわち「信仰」「愛」「救いの望み」「真理」「正義」「平和の福音」「みことば」「祈り」(Ⅰテサロニケ5:8、エペソ6:11~18)をこそ、親しみ身につけたい。そのとき、キリスト者の生活は、義の太陽なるキリストの下での「昼らしい、品位のある生き方」となる。

Ⅲ 「主イエス・キリストを着なさい」 (13:14)
 「光の武具を身につける」とは究極的には、「主イエス・キリストを着なさい」ということ。キリストを受け取り、キリストに自らを差し入れ(キリストにゆだねる)ことである。キリストを信じ、死んでよみがえられたキリストと霊的・生命的・有機的に結合され、キリストのいのちに生かされることなのである。
古代のローマの文学的表現で、「だれだれを着る」という言い方で「だれだれの役割を演ずる」という意味を表すことがあった。だから「主イエス・キリストを着る」とは、キリストの役割を果たすという意味にもなろう。すなわち、「主イエス・キリストを着る」とは、私たちがこの世でキリストの役割を私も果たさせていただく、ということである。この世でキリストの役割を果たさせていただくために、私たちは「肉」(生まれながらの罪深い本性)に心を用いず、キリストを思い、キリストに模倣し、そして、キリストとともに神と人に仕えるのである。
「主イエス・キリストを着なさい」。私たちへの神の召しを確認させられることばである。私たちは主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストと交わりながら、主イエス・キリストと一つにされ、主イエス・キリストに心向けながら、この暗い世にあって光である主イエス・キリストのように生き、小さなキリストとして人々に仕える。私たちはそのように召されているのである。

私たちは認識と生き方を一新させていただこう。私たちは「終末の時」に生かされている。それは、闇の世にあっても確かな光を希望することができる時である。2018年3月11日、私たちは、なお困難の多い世に生きている。しかし、朝の光が照っている。救いは私たちにもっと近づいている。救い主は、今日はさらに私たちの近くにおられる。それゆえ、今日も心新たに「主イエス・キリストを着なさい」。そして、小さなキリストとして、光の子どもとして新たに歩み出しなさい。
キリストにある愛の光に照らされながら、私たちもこの世の一隅を愛の光で照らし出す者、愛の光キリストを映し出す者とされたいのである。