礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年3月4日 説教アウトライン】  「十字架のイエスを直視する」  マルコの福音書 15:33~41

「この方は本当に神の子であった」(39)という百人隊長の告白は、「神の子、イエス・キリストの福音」(1:1)を証しするマルコ福音書のクライマックスである。
前半のクライマックスは、「あなたは、キリストです」(8:29)というペテロの信仰告白であった。しかし、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、イエスが十字架の苦難と死を経て復活するキリストであることを理解していなかった。イエスは「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(10:45、マルコ福音書の中心聖句)と教えられたが、イエスが十字架にかけられた時はその場にいることはできなかった。
本日はイエスの十字架での最期の場面を見る。

Ⅰ イエスの十字架の死(15:33~37)
イエスは朝の9時に十字架につけられ(25)、昼の12時から3時まで「闇が全地をおお」った(33)。これは出エジプトの時と同じ、神の怒りとさばきを示す、神の直接介入による「真っ暗闇」(出エジプト10:22、アモス8:9~10)である。父なる神は人類の罪を(そして、私の罪を)十字架のイエスの上に置き、全地をさばく代わりに(そして、私をさばく代わりに)、イエスに神の聖なる怒りとさばきを下された。午後3時に至り、神のさばきは最高潮に達した。
イエスは苦しみつつも神を信頼する者の詩、詩篇22篇を黙想していたのであろう。その詩に示されている人々のあざけりと敵対(詩篇22:6~8,17~18)がご自分に成就していくのを見た(29,24,マタイ27:43)。そして、イエスは魂の叫びとして詩篇22:1の叫びを叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34)。イエスは本当に見捨てられたのである。弟子たちに見捨てられ、ユダヤの指導者たちに見捨てられ、群衆に見捨てられ、ともに十字架につけられた犯罪人たちから見捨てられ(二人のうち一人はやがて十字架の上でイエスへの信仰を告白したが)、そして、父なる神からも見捨てられた。
イエスは罪無き神のひとり子であるが、罪ある人間の代表となり、私たちの罪を負って、神の怒りとさばきを徹底的にすべて、全人格をもってお受けになり(Ⅰペテロ2:24)、神の怒りの杯を飲み干された(14:36)。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました」(Ⅱコリント5:21)。それゆえ、十字架のイエスにあって、神の怒りとさばきは私たちから過ぎ去った。
エリヤはイエスを助けなかったが(35~36)、イエスは「完了した」(ヨハネ19:30)、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)と神への信頼の叫びをもって圧倒的な勝利者として死なれた(37)。神に見捨てられながらも、なお神を信頼し通した。そして、三日目に死人の中から復活させられた。こうして罪の贖いは完了し、イエスにあって、人はもはや罪に定められることなく、完全に赦され(ローマ8:1、エペソ1:7)、「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)となる。このイエスにあって、私たちは御父の御手にすべてをゆだねて人生を閉じることができる。

Ⅱ イエスの十字架の死がもたらしたもの(15:38)
イエスの十字架の死によって、神殿の聖所と至聖所を隔てる「幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38、ヘブル9:6~7)。今や、旧約の大祭司だけではなく、人はだれでもイエスにあって、大胆に確信をもって神に近づくことができる(エペソ3:12、ヘブル10:19~20)。
そして、このイエスにあって、私たちは神に向かって大胆に嘆くことさえできる。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。神に信頼し、期待し、徹底的に従いながらも壁にぶち当たる時があろう。そんな時、私たちの嘆きの同情者、理解者、助け手であられるイエスがそこに共にいてくださる。イエスは私たちと共に嘆き、叫びながら、しかも神への信頼と服従へと導いてくださる。

Ⅲ 十字架のイエスを直視し続ける(15:39~41)
ガリラヤからイエスに従い仕えていた女たちは、イエスの十字架をじっと見続けた(40~41)。
十字架刑執行の現場責任者であるローマの百人隊長も、イエスの受難と十字架のいっさいを直視し続け、イエスの死に際して「この方は本当に神にお子であった」と信仰を告白する(39)。
イエスを十字架につけた罪人の一人として、十字架のイエスを直視し続ける中で、信仰は芽生え、育まれる(Ⅰコリント1:23, 2:2)。信仰生活は、十字架のイエスを直視する生にほかならない。「イエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)。

十字架のイエスを直視し続けるとき、私たちは神の愛と罪の赦しを豊かに身に受ける。
また、十字架のイエスを直視し続けるとき、私たちは世の罪と悲惨に絶望しながら、神に大胆に叫ぶ者、そして、神の圧倒的な勝利を世にもたらす通路とされて