礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2018年2月25日】  「生き返ったヤイロの娘」 マルコの福音書 5:21~43

人々から尊敬されていた会堂司ヤイロであったが、イエスのもとに「来て」、「イエスを見」て、イエスの「足もとにひれ伏し」(22)た。ヤイロはイエスを信頼し、「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって娘の上に手を置いてやってください」と懇願した。娘は12歳で決して小さくはなかったが、ヤイロにとっては「いと小さき者」「目に入れても痛くない」ほどの可愛さだった。イエスはヤイロの懇願をそのまま受けとめてくださった。
イエスのもとに来て、イエスを見上げ、イエスの御前にひれ伏し、イエスの救いを信頼する。これがキリスト者の礼拝であり、キリスト者生活の要である。救い主イエスの愛の語りかけのことばを聴き、さらにイエスを信頼していきたい。

Ⅰ 「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:35~36)
ヤイロの信頼と懇願を受けとめたイエスは行動を開始し、「ヤイロと一緒に行かれた」(24)。その途上、長血の女のいやしのできごとが展開された。ヤイロは女のいやしを目の当たりにし、イエスという方はご自身を信ずる一人一人を受けとめてくださると、意を強くしたことだろう。
そこに娘の死亡の知らせが届き、使者の冷ややかなことばが発せられる。「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょか」(35)。「死んだら一巻の終わり、望みはない」と言わんばかりである。ヤイロは絶望の淵に叩き込まれたが、イエスは「聞き流して」(36、口語訳)言う。「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)。
私たちは困難に直面し、恐れてしまう。くじけ、絶望する。過去への後悔や将来への不安に激しく動揺する。しかし、イエスがおられる限り絶望はない(Ⅱコリント4:8~9)。厳しい現実と現場の声に圧倒され、恐れても、なおイエスを見、イエスのことばを聞き続けよう。私ががんばって何かするのではない。「ただ」イエスを信頼し続けるのみである。「神が遣わした者」イエスが事を行ない、行動してくださる(ヨハネ6:28~29「『神のわざを行なうためには、何をすべきでしょうか。』 イエスは答えられた。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」)。神がなさせてくださる(ピリピ2:13「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」)。私たちは主イエスをただ信じるのみ

Ⅱ 「死んだのではありません。眠っているのです」(5:37~39)
ヤイロの家は「葬」一色。職業的泣き女たちが泣きわめき、悲しみを掻き立てていた(38)。しかしイエスは言う。「死んだのではありません。眠っているのです」(39)。
イエスにおいては、肉体の死は一巻の終わりではなく、新しい大いなる生命に向けての眠りにすぎない。「信者の魂は、彼らの死のとき、完全に清くされ、直ちに栄光に入り、信者の体は、キリストになお結ばれたまま、復活まで、彼らの墓の中で休みます」(ウェストミンスター小教理問答37)。
キリストにあって、この世の生は“一巻の終わり”ではなく、永遠の生の始まり、いわば「本の表紙と扉にあたるにすぎません」。この世の生の終わりは、「地上の何人(なんぴと)も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところ」なのであり、「その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです」(C.S.ルイス『さいごの戦い』(ナルニア国ものがたり 7)のしめくくりのことば)。

Ⅲ 「タリタ、クム」(「少女よ、起きなさい」)(5:40~43)
イエスのことばを聞き、泣き女たちは一転、イエスをあざ笑う。イエスはヤイロ夫妻と3人の弟子(37)だけを伴って娘に近づき、彼女の手を取って、「タリタ(少女よ)」「クーム(起きなさい)」とアラム語(当時の日常語)で語り(41)、彼女を起き上がらせた(42)。
人間の生には、神から離れているという罪が潜み、死が浸透している。しかし、十字架で罪の贖いを遂げ、復活された主イエスが生きてともにいてくださるので、主を信じ、主につながる者は、「イエスのいのち」(Ⅱコリント4:10~11)によって立ち上がらされる。生涯のすべての日に(Ⅱコリント4:8-9)倒れても立ち上がらされ、人生の最期の死のときには霊において主の御前に立ち上がらされ(ピリピ1:23)、世の終わりのときには栄光の身体をもって(Ⅰコリント15:42~)立ち上がらされ、復活させられる。
ヤイロはイエスの力をまのあたり経験し、約束を実現してくださるイエスのご真実を知った。

「起き上がれ」と語り、事をなしてくださるイエスがともにおられる。「恐れないで、ただ信じていなさい!」。