礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年2月18日 説教アウトライン】    「隣人を愛する」    ローマ人への手紙 13:8~10
                   
12章以下はキリスト者生活の教えである。
キリスト者生活は、神との人格的交わりの中で他者と共に生きることである。別のことばでいえば、縦軸と横軸がある生活である。神に愛され、神を愛するという縦の関係がまずあり、神からいただく愛をもって人を愛するという横の関係が展開される、そういう生活である。
本日の箇所は、対人関係の基本である「隣人を愛する」ことについてである。

Ⅰ 愛の負債(13:8ab)
前回の箇所で「すべての人に対して義務を果たしなさい」(7)と言われた。「すべての人」(上に立つ権威、年長者・先輩、同等者・同僚・仲間、年少者・後輩、弱い立場にある人)に対して義務を果たすことが求められている(『子どもと親のカテキズム』の問71参照)。
そのことが本日の箇所では、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」(8a)と言いかえられる。借金を放置したままにしてはならないだけでなく、対人関係で果たすべき義務(それは当然返すべき負債のようなもの)をおろそかにしてはならないということである。
「ただし、互いに愛することは別です」(8b)。借金は返済すれば完了する。義務は果たせばそれで終わる。しかし、「愛すること」には終わりがない。愛することは、「これで完了」ということがない、いわば「永遠の負債」なのである。
神は私たちを愛し、守り、生かしていてくださる。そればかりか、神は罪人である私たちを愛し、愛する御子を与えてくださった。神は御子を人間となし、御子を十字架につけ、御子において私たちの罪をさばき、御子を死からよみがえらせ、御子においていのちの道を開き、御子を天に挙げ、さらに御子の聖霊を遣わし、聖霊において御子を私たちに差し出してくださった。そして、御子にあって、私たちに罪の赦しと永遠のいのちと神の子どもとしての特権を与えてくださっている。ここに私たちへの神の無限の愛がある。それは返済しきれるものではない。
また、神は隣人たちの愛・親切・助けを通して、私たちへのご自身の愛を現してくださっている。隣人たちからの愛もまた、神の愛の現われ・反映なのであり、返しきれるものではない。それに、真実な「愛」(アガペー)はそもそも見返りを求めない、返済を求めない愛である。
しかし、人から受けた愛・親切・恩義にお返ししたいというのは当たり前の心情だろう。その場合、恩人に感謝すべきであるが、恩人に何かを返すだけなら、愛のやりとりは両者の間で完結してしまう。恩人から受けた愛を喜びながら、今度は別の人に愛・親切を注ぐなら、もっとすばらしい。愛が次々世界に広がっていく。「真実な愛は見返りを求めないものだ」と開き直って、愛を受けた者は「何もしない」ではなく、むしろ、ひたすら感謝し、自由に、自分を神と人に差し出し、自分のできる最善をもって応答し、愛していこう。そのようにして、対神関係、対人関係は潤され、家庭と教会と社会と世界に愛があふれていくのである。「経済的な借りは人間関係を壊すが、愛の借りは人間関係を育てる」とは名言である。

Ⅱ 他の人を愛することこそ、律法の要求を満たすこと(13:8c~10)
見返りを求めない真実な愛で「他の人を愛する者は、律法の要求を満たしている」(8c)。
律法が要求することは、「十戒」(出エジプト20:2~17、申命5:6~21)で具体的に示されていた。そして、イエスは律法の要求することを、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6:5)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18,34)の二つに要約した(マタイ22:37~40)。ところが、パウロは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」一つに要約する(9, ガラテヤ5:14)。
なぜか? 人間は「神を愛する」「神のため」と称して人を憎み、殺し、戦争までするからである。パウロもかつてはそうだった。彼は「神のために」と称して、キリスト者たちを捕縛し、殺害しようとした(使徒9:1~2)。十字軍もしかり、イラク戦争もしかりである。(教皇ヨハネ・パウロ二世は「神の名において殺すな。平和はつくるもの」と語り、イラク戦争を回避させるべく時の米国大統領とイラクの大統領にギリギリまで働きかけた)。
真実の愛は、隣人への態度にこそ現れ、「隣人(8「他の人」)に対して悪を行いません」(10a)。真実の愛は、虚偽の人間関係に基づく姦淫を引き起こすことはなく、人を建て上げるので殺すこともない。与えることにその真価があるので(使徒20:35、「受けるよりも与えるほうが幸い」)、盗むこともなく、むさぼることもない。真実の愛は「律法の要求を満たすものである」(10b)。

私たちは真実に隣人を愛していきたい。そのためにも、神の真実な愛をもっともっと受けとる必要がある。私たちは真実に隣人を愛することのできない自分の罪深さを認め、キリストの十字架の下に座り、罪を赦してくださる神の愛を味わい続けよう。そうして、神の真実な愛に押し出され、真実に隣人を愛する歩みに進ませていただきたいのである。