礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2018年2月4日 説教アウトライン】 「十字架を忍ぶ」 マルコの福音書 15:16~32 イエスに「わたしについて来なさい」と招かれ、イエスの弟子とされた者(すなわち、私たちキリスト者)は、どのようにイエスについて行くのか。それは、「自分の十字架を負って」(8:34)ついて行くのである。それでは、「自分の十字架を負って」イエスについて行くとは、どういうことだろう。 イエスの苦難はあらゆる方面から来た。イエスは弟子たちから裏切られた(14:50,66~72)。ローマ兵のからかいと悪ふざけを受けた(15:16~20)。十字架につけられたイエスは、民衆からののしられ(29~30)、祭司長と律法学者と長老たちから嘲られ(31~32a)、いっしょに十字架にかけられた二人の強盗からもののしられた(27,32b)。イエスは麻酔代わりの「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲まず(23)、すべての苦痛を耐え抜き、決して自分を救わなかった(31)。この方が、私たちの主であり、救い主なのである。 Ⅰ ユダヤ人の王 (15:16~27) ユダヤの宗教指導者たちはイエスをローマに反逆する「ユダヤ人の王」とでっちあげ、総督ピラトに告訴した。ピラトはイエスの無罪を悟った(ヨハネ19:4)が、宗教指導者と民衆に押され、暴動を恐れて、イエスに死刑を宣告した。ピラトは嘲笑を込めてイエスの十字架の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いた。 ローマ兵たちは十字架につけられる惨めな「ユダヤ人の王」を徹底的にからかい、なぶりものにした後、ゴルゴタの丘に連れて行き(22)、裸にして十字架にはりつけ、その衣をくじで分けた(24)。 聖書記者マルコは別の意味で「ユダヤ人の王」というタイトルにこだわる(2,9,18,32)。イエスが「神の民のまことの王」「神の国の真の王」であるという意味で。弟子のヤコブとヨハネは、イエスが王となる即位式(戴冠式)のときに王座の右と左の座に座らせてほしいと要求した(10:38,40)。しかし、いまや、イエスは左右の極悪犯罪人の真ん中の十字架という王座で、受難の王として即位し、戴冠された。実に、罪なきイエスは、罪ある世界の罪人のど真ん中で、罪人の代表として神の前に立ち、罪人に代わって罪を負う王となられた。 Ⅱ 十字架を負う(15:21~24a) 十字架刑に処せられる者は、自分がはりつけになる十字架の横木を背負い、見せしめのため町中を引き回された。前夜からの6回の裁判と虐待などで衰弱したイエスに代わり、途中からクレネ人シモンが横木を負わされた。「アレクサンドロとルフォスの父」(22)とわざわざ書かれているのは、シモンや息子たちが初代教会でみんなに知られたキリスト者となっていたからであろう(ローマ16:13、使徒13:1)。彼はイエスの十字架の重みを全身で受けとめながら、「イエスの後から」ついて行った(ルカ23:26)。 イエスは兵士たちから差し出された麻酔代わりの没薬入りぶどう酒を拒否し、生身のまま十字架につくことを選んだ(23~24a)。このようにして、イエスは十字架の苦悩と痛みのすべてを、鮮明な意識をもって、「全人的に」(身体的にも、精神的にも、社会(人間関係)的にも、霊的にも)しっかりとお受けになった。 「キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(Ⅰペテロ2:24)。イエスは私たちの罪を負ってくださった。私たちの原罪(本質的腐敗)を負い、罪人である私の存在を負い、罪に対する神のさばきを負い、しかも、罪の悲惨と罪の害悪を負って、十字架で苦しみ、死んでくださった。 Ⅲ 自分を救わない救い主(15:29~32) この世の王は自分と国を救うために、国民や人々を犠牲にする。しかし、神の国のまことの王であられるイエスは、「自分を救ってみろ」と煽られても、十字架から降りて自分を救うことはなかった。 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(Ⅰテモテ1:15)。イエスは、「私」の罪を負い、罪人である私を負い、決して自分を救うことなく、私たちのために神のさばきを受け尽くして死んで、そして、神によってよみがえらされた。この十字架と復活のイエスにあって、救い(罪の赦し、永遠のいのち、罪への勝利)は私たちのものとなっている。イエスを信頼して歩もう。 「わたしについて来なさい」とイエスは言われる。私たちは自分の十字架を負ってイエスについて行く。自分の十字架とは、イエスの十字架と別ものではない。イエスの十字架を自分の十字架として負うのである。 クレネ人シモンのように、イエスの十字架の重みをしっかり受け止めて歩ませていただこう。十字架の重み、それは私の罪の重みに他ならない。私の罪はイエスが十字架につかなければ赦されない程重いのである。その私の罪をイエスは身代わりに負ってくださった。いや私の罪だけでなく、多くの人の罪を負われたのである。だからこそ、私たちは十字架のイエスの苦しみを自分のこととして受け止める。自分の罪の重さを感じ取りながら、また、十字架で示された神とイエスの愛と、そこから流れる救いの恩恵とを深く受け止めながら、心から感謝しつつ、イエスについて行きたい。私たちは、イエスの十字架の「痛みと愛と恩恵」の重みを自分のこととして深く受け止める歩みへと招かれている。 また、私たちはイエスの十字架を自分の十字架として負うのであるが、それは「イエスの十字架に私自身もつけられた」と自覚しながら生きることでもある。「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:19~20)。そのように自覚しながら、私ではなくイエスに生きていただくのである。私たちは、自分でなく十字架と復活のイエスが生きてくださる歩みへと招かれている。 私たちはまた、自分固有の十字架、すなわち、自分の日々の苦悩、苦闘、課題を負わなければならない。しかし、私の苦悩や苦闘や課題を負いながらイエスについて行くとき、その私の苦悩や苦闘や課題を通してイエスの十字架を実感させられることになる。私の苦闘がイエスの十字架と一つにされ、私の苦闘の中にイエスがともにおられ、ともに苦闘していてくださることを実感させられるのである。 十字架を忍ばれたイエスにおいて救いの泉は開かれた。イエスとともに十字架を忍ぶ歩みにおいて、救いの喜びは満ちあふれる。イエスは主です! |