礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年1月28日 説教アウトライン】    「最初の弟子たち」     ヨハネの福音書 1:35~51

新しい時代の「最初のキリスト教会」に5人が弟子として加えられた。本日は、1:43~に記されているピリポとナタナエル(「バルトロマイ」のこと、マルコ3:18)に注目する。

Ⅰ 「来て、見なさい。」(1:43~46)
ガリラヤで公の活動をしようとされたイエスは、ピリポを「見つけ」(見出し、発見し)、彼を弟師になるよう召し出した(43)。ピリポはイエスと出会い、弟子とされ、本当にうれしかった。彼は友人のナタナエルに、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方(メシヤ、キリスト)に会いました(発見しました)」(45)と言った。キリストに出会ったことにより与えられた祝福と感動が心のうちに溢れている状態で、感動をもってこのイエスのことを証しした。
私たちも、聖書に聴き、黙想し、祈り、礼拝を重ねて、聖霊において臨在されるイエスと日々、新たに出会いつつ、感動をもってキリストであられるイエスを証ししたい。
しかし、ナタナエルの反応は、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と偏見にとらわれ、冷ややかだった。今日もそうであろう。しかし、ピリポは彼を不信仰だと責めず、議論することもなく、「来て、見なさい」(46)と言った。
偏見、不信を乗り越える唯一の道は、イエスに出会うことである。「教会はキリストのからだ」(エペソ1:23)、教会こそイエスとの出会いの場である。「来て、見てください」。

Ⅱ 「わたしは“前に”、あなたを見たのです。」(1:47~49
それでもナタナエルはピリポについて来て、見た。彼がメシヤ(キリスト、救い主)を持ち望んでいた熱意の現れである。
イエスはナタナエルのことを「まさにイスラエル人。偽りがない」(47)と言う。「イスラエル」(「神と争う(取り組む)者」」とは民族名であるが、もともとは神と格闘し、神と取り組んだ族長ヤコブにつけられた名である(創世記32:28)。それゆえ、「本当のイスラエル」とは、「ユダヤ人」(ヨハネ福音書では特に宗教指導者を指す語)、人前に敬虔そうに振る舞う偽善者のことではなく、自分の弱さを認め、神による救いを真剣に求める者のことである。「偽りがない」とは「神の前に誠実であろうとする」ことである。イエスは彼のそのような内面を見抜いておられた。
ナタナエルはイエスの驚くべき洞察に、イエスの神としてのまなざし(2:25)を感じ、イエスに対する心からの信仰となって、イエスこそメシヤであると信仰告白し、新時代の最初の教会に加えられた。
イエスとの出会い方は人それぞれ違うが、共通するのは、イエスが「前もって」個人的に探し出し、しっかり目をとめてくださったということである。感謝!

Ⅲ 「さらに大きなことを見ます」(1:50~51)
51節のイエスのおことばから、ナタナエルはいちじくの木の下で、創世記28:12にある族長ヤコブ(イスラエル)が見た夢のことを黙想していたと推測される。ヤコブが見た夢の中で、地に向けて立てられた「はしご」を天の御使いたちが上り下りしていた。
一方、イエスは、天からのはしごではなく、「人の子」(イエスご自身)の上を御使いたちが上り下りするのを見ることになる、と言う。イエスご自身が天地をつなぐ方、イエスご自身(受肉と神への服従、罪人のための贖いとしての十字架と死、復活と昇天、聖霊降臨、これらすべてを成し遂げ、聖霊によって今ともに臨在してくださるイエス)において、今や天と地はつながっている。今や私たちの上に「天は開けて」(51)いる。
それゆえ、イエス・キリストと交わり、この方のもとに留まることによって、私たちは天の栄光を見、天の祝福と喜びと平安と自由をこの地にあっても豊かに体験するのである

開かれた天の下、主イエスと交わり、日々、神の賜る愛と恵みと平安を味わいながら、感動をもって「来て、見なさい」「イエスのもとに来て、イエスにお会いください」と証しさせていただこう。