礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2018年1月14日 説教アウトライン】   「偽りなき愛」   ローマ人への手紙 12:9~13
                   
12章以下はキリスト者生活の教えである。
キリスト者生活は常に、私たちのからだ(心を含む全人格全体。この世に関わる私たちの全存在)を、神のあわれみのゆえに、キリストにおいて、神に献げ差し出すことから始まる(1)。キリスト者生活は、神との人格的交わりの中で他者と共に生きることである(2)。
キリスト者生活の具体的な表現は、まずキリストのからだの器官として生きること(4~5)、そして、キリストのからだである教会に生きることにある。キリスト者は、教会共同体において、互いに異なる賜物をもって仕え合いながら、ともに成長し、さらに世界に仕える。

Ⅰ 愛には偽りなきもの(12:9a)
身体には血液が絶えず循環している。キリストのからだである教会(聖徒の交わり)にも、たえず愛が循環している必要がある。
「愛は偽りなきもの」(9節直訳)。「(本当の)愛とは、偽り(偽善)があってはならないものなのだ」。しかし、私たちの愛は偽り(偽善)の愛となりやすい。本当は持ってもいない愛を偽り装う。そのような偽りの愛は他人を欺き、自分をも欺いてしまう。「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもって愛し合いましょう」(Ⅰヨハネ3:18)。
しかし、私たちの力ではどうにもならない。だから、自分の愛の無さを認め、神を仰ぐ必要がある。偽りのない、純粋な愛の源は神にあるからである。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:8,16)。
神は三位一体の神であられる。御父と御子と聖霊は別人格でありながら完全に一つであられる。御父と御子と聖霊は、自分のすべてを互いに与え合い、完全に受け入れ合い、心から仕え合う、永遠から永遠にわたる活ける愛の交わりのうちにおられる。
私たち人間も本来はこのような愛の神に似せて創造された。しかし、罪のゆえに人間の愛は著しくゆがめられている。そのような人間が、愛を知るために、愛に成長し、愛に生きることができるようになるためには、三位一体の神の愛の交わりの中に入れられなければならない。私たち人間は、三位一体の愛の神との交わり(神に自分を献げる神礼拝)の中において、神の純粋な愛を体験し、神の真実な愛で満たされる。そして、神からの偽りのない愛をもって神を愛し、人を愛する者へと変えられていく。
特に、御父が私たちのために遣わし、十字架で私たちの罪の贖い(神への償い)を成し遂げ、死に勝利して復活され、今も生きて私たちを祝福してくださる神の御子キリストに目を注ごう(Ⅰヨハネ4:9~10)。このキリストにおいて、私たちは神の愛を発見するのであり、キリストを見上げる時、聖霊によって神の愛が私たちの心にいよいよ注がれる(ローマ5:5)。父なる神は、聖霊において臨在される御子キリストにおいて、私たち罪人を三位一体の神の偽りのない愛のうちに日々招いておられる。「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)。

Ⅱ 愛の実際的な諸相(12:9b~13)
12:9~13は、原文は文法的に命令形ではない。「愛せよ」「こうせよ」ではない。愛はそもそも偽りないものであり、私たちには偽りのない愛が必要であること、そして、偽りなき愛は、実際的に次のように現われるものであることを教えている。
偽りなき愛は、一方で「悪を憎み」、もう一方で「善に親しむ」もの(9b)。
偽りなき愛は、教会において「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う」もの(10)。
偽りなき愛は、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える」もの(11)。
偽りなき愛は、「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈る」もの(12)。
偽りなき愛は、「聖徒の必要をともに満たし、努めて人をもてなす」もの(13)。
これら愛の実際的な姿を、一つひとつ味わい、心に刻みたい。
しかし、愛について人と比較して一喜一憂しても意味がない。むしろ私たち皆が、このような愛の生活に、愛する人生へと招かれており、愛することへと向かわせられているのである。そして、偽りのない神の愛をさらに一層いただくようにと、愛の神ご自身へと招かれている。

不敬虔な者をキリストにあって義として救い、聖化の道筋を歩むように導いておられる愛の神は、私たちの生活と教会に偽りなき愛をいよいよあふれさせ、世界を潤していかれるのである。神に感謝!