礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年10月1日 説教アウトライン】    「十字架につけろ」     マルコの福音書 15:1~15

「十字架につけろ」とは激しいことば。ヨハネ19:15では「除け、除け、十字架につけろ」。これは“イエス様なんか必要ない!”ということである。私たちは本当に主イエスを必要としているのだろうか?
「最高法院」(サンヘドリン、ユダヤの指導者たちによる宗教裁判所)は夜中にイエスの審問をし、イエスが自らを神の子と主張し、神を冒涜したという理由で死刑相当と判断した(14:53~65)。翌朝、最高法院全体で再度、協議を行い、イエスを死刑にするためにローマ総督ピラトに引き渡した(15:1)。当時、ユダヤ側には死刑に処する権限がなかった。だから、ピラトの裁判を受けさせ、ピラトの口から有罪判決を引き出さなければ、イエスを死刑にはできなかった。ユダヤの指導者たちは、訴因を皇帝への反逆罪にすりかえ、ピラトに訴え出た(2)。

Ⅰ ピラトの前でのすばらしい告白 ―断言と沈黙―
ピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」との尋問に対し、イエスは「あなたがそう言っています。(あなたの言うそのとおりです)」と、一言の断言をもってお答えになった。「イエスは、ご自分が現実的、政治的なユダヤの王であると言われたのではない。見えない神の国の王、人間のたましいを導き救う王である、と言われたのである(マタイ2:2)。
最高法院のユダヤ人宗教指導者たちは「多くのことでイエスを訴えた」(3、新改訳2017)。国民を惑わし、反逆を扇動した、ローマ皇帝への納税を禁じた(ルカ23:2)などと、根も葉もないことを並べ立てた。これらのことに対してはイエスは完全に沈黙を守られた。なぜか、
① あざける者への百万言の答えは無意味だから(箴言9:7~9)  
② 受難のメシヤ預言の成就のため(イザヤ53:7)
③ 御父にまったくゆだねていたから(Ⅰペテロ2:23)
イエスの沈黙もまたご自身がメシヤ(キリスト、救い主)であることを雄弁に証言する。
「ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエス」(Ⅰテモテ 6:13)の断言に心とめよう。「わたしは王です」「罪と死と悪魔から救い、永遠の御国へと導く王です」という断言を。

Ⅱ イエスを十字架に引き渡し追いやった人々の罪
ユダヤ宗教指導者たち、特に「祭司長たち」は、「ねたみからイエスを引き渡した」(10)。「ねたみ」という罪である。彼らの心の叫び、それは「イエスは邪魔者、邪魔者は消せ!」である。
群集は祭司長たちに扇動され、「十字架につけろ」と激しく叫んだ(13~14)。「無責任」、「無思慮」、「真実と罪とに関する無関心」という罪である。彼らの本心、それは「イエスなどどうでもいいさ。消してしまってもどうということはない。痛くもかゆくもない!」である。
ピラトはイエスの無罪を確信した(14、ヨハネ19:6「私にはこの人に罪を見出せない」)。しかし、30代で出世街道まっしぐらの彼にとって、ユダヤ人が暴動を起こしたら、自身のキャリアの失点となる。それで慣例の恩赦を利用し、イエスと悪党バラバを天秤にかけさせ、群集にイエスを恩赦せよと言わせようとしたのであるが、思惑が外れてしまった(6~13)。「群衆を満足させようと思い」(15、新改訳2017)、バラバを釈放し、イエスを十字架につけるように引き渡してしまった(15)。自分の「出世欲」、「保身」のために「良心をねじ曲げる」という罪。彼の本音、それは「イエスは気になるが、自分のことのほうがもっと大切。そのためならイエスは消えてもよい!」である。
「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)。しかし、イエスは「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」(Ⅰペテロ2:24)のである。

Ⅲ イエスが十字架に引き渡され、バラバが釈放された
「バラバ・イエス」と「キリストと呼ばれているイエス」(マタイ27:17)、どちらを釈放するかとピラトに問われ、祭司長たちに扇動された群衆は「バラバ」の方を選んだ(11)。
バラバが知らないうちに、イエスの身代わりの死が準備されていたのである。バラバはイエスの身代わりによって罪を赦され、無罪放免された。私たちもそうである。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。
私たちキリスト信者もまたバラバなのである。イエスによって「罪赦された罪人」の代表である。

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(Ⅰテモテ1:15~16)
私たちキリスト信者は、イエスによって「罪赦された罪人」なのだと心得て生きようではないか。イエスを「必要なし」とする自己中心の心こそ十字架につけてしまわなければならない。いや、そういう自己中心性がすでに十字架につけられてしまったのだ。そして、赦され、いま、キリストのいのちに活かされている。
それゆえ、私たちは「罪赦された罪人として」、罪からの救い主である王、主イエスをこれからも常に必要としていることをわきまえよう。「罪赦された罪人として」、主イエスに大いに感謝しよう。そして、「罪赦された罪人として」、神の愛の実例としての自分を人前に差し出しながら、すばらしい救い主イエスを宣べ伝えて生きようではないか。