礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2017年9月24日 説教アウトライン】 「タラントのたとえ」 マタイの福音書 25:14~30 24~25章は、イエスがなさった終末についての説教の文脈。「天の御国」(14)は、完成された神の国であり、かつ、そこに向かう神の国でもある。ここには、主イエスの再臨と最後の審判とともに、そこに向かう私たちの心がまえが教えられている。 24:45で「忠実な賢いしもべ」ということが言われている。再臨の日に向けて私たちは「忠実さ」と「賢さ」が必要である。25:1~13の花婿を迎える10人の娘のたとえは、「賢さ」「愚かさ」について教えられている。そして、本日の25:14~30は、「忠実さ」「不忠実さ」について教えられている。 本日のたとえの概要は、次のとおりである。 主人は旅立つにあたって、3人のしもべに財産をあずけた。第一のしもべには5タラント、第二のしもべには2タラント、第三のしもべには1タラント。第一のしもべは預けられた5タラントを用いて商売し、さらに5タラントをもうけた。第二のしもべは預けられた2タラントを用いて商売し、さらに2タラントをもうけた。第三のしもべは主人が恐ろしかったので損をして怒られないようにと考え、預けられた1タラントを土の中に埋めておいた。 かなりたって主人が旅から帰って来て、しもべたちと清算をした。第一のしもべはもうけた5タラントを差し出す。主人は彼の忠実さをほめ、「私はあなたにたくさんのものをまかせよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言う。第二のしもべはもうけた2タラントを差し出す。主人は彼の忠実さもほめ、「私はあなたにたくさんのものをまかせよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言う。第三のしもべは、主人に向かい「あなたは恐ろしい人だから、預けられた1タラントをそのまま保ち、損もせずにいまお返しします」と言う。主人は彼に「それでは、銀行に預けておけば利子がついたではないか」と言ってしかり、その1タラントを取ってそれを第一にしもべに渡してしまう。 私たちは忠実なしもべであることが求められている。忠実なしもべとは、どのようなものか。そして、忠実なしもべに対する神の祝福は何か。 Ⅰ 忠実なしもべとは 忠実なしもべとは、第一に、自分にはすばらしいものがたくさん与えられていることを認識している人である。15節には「能力」と「タラント」が出ている。これは同じものの二つの面。「能力」が目に見えないものとすれば、タラントはその能力が現れた目に見えるものと言えよう。しかし、その後は一括して「タラント」と表現しているとも言えると思う。私たちは素晴らしいものがたくさん与えられている。1タラントだって莫大なものである。それは6000日分の賃金。私たちはだれもがみな、神(主イエス)から本当に素晴らしいものを与えられている。存在、時間、身体、心、いろいろな能力、ユニークな性格、財物、地位、仕事、人生経験、境遇・・・。忠実なしもべとは、第一に、自分にはすばらしいものがたくさん与えられていることを認識している人である。 忠実なしもべとは、第二に、自分に与えられているたくさんのすばらしいもの(タラント)が、すべて神(主イエス)からの預かりものであることを認めている人である。私たちは自分のものだと思うと、他人と比べて自分の方が少ないとか多いとか思って、劣等感を持ったり、優越感に浸ったりしてしまう。そうではないのである。すべて神(主イエス)からの預かりもの、存在、時間、身体、心、いろいろな能力、ユニークな性格、財物、地位、仕事、人生経験、境遇・・・、すべてが神(主イエス)からの預かりもの。だから、神(主イエス)から預かったものに忠実であれば良いのである。忠実なしもべとは、第二に、自分に与えられているたくさんのすばらしいものが、すべて神(主イエス)からの預かりものであることを認めている人である。 忠実なしもべとは、第三に、神(主イエス)からの預かりものであるタラントを、主人である神(主イエス)のために生産的に、創造的に、誠実に用いる人である。自分のためにだけ用いるのではなく、主のために用いる。もちろん、自分が生きるということ、体を管理すること、生活をすること、家族を養うことも私たちに託されているつとめであり、そのために働くことは基本である。しかし、それらのことも主の栄光が現れるようにと祈りつつ行う。しかも、それらの基本的なわざの上に立って、さらに主のために、主の働きのために、主の教会のために、また、神が愛しているすべての人を生かし仕えるためにわざをなすことである。忠実なしもべとは、第三に、神(主イエス)からの預かりものであるタラントを、主人である神(主イエス)のために生産的に、創造的に用いる人である。 忠実なしもべとは、第四に、主人である神(主イエス)のしもべであることを喜び、主人である神(主イエス)に心から信頼して、タラントを用いる人である。不忠実なしもべの問題点は、主人のしもべであることを不満に思い、かつ、主人を全く信頼していなかったことである。不忠実は不信仰の現われと言えよう。忠実なしもべとは、第四に、主人である神(主イエス)のしもべであることを喜び、主人である神(主イエス)に心から信頼して、大胆にタラントを用いる人である。 Ⅱ 忠実なしもべに対する祝福 主人が旅から帰って来て清算をする。それは、私たちの主イエスが再臨して、最後の審判の時になされる。 清算のときに、どれだけもうけたかという成果によっては評価されていない。21節と23節は同じことばである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。与えられているものに忠実であったかどうかだけが問われている。主はそういう者には、多くのものがまかせられる。仮に損をしてしまったとしても、忠実にやってそうなってしまったのなら主は喜んでくださるであろう。 完成された御国において、私たちは王として支配する(黙示録22:5)。アダムとエバが王として、エデンの園を耕し守ったことと同じである。つまり、王として支配するとは働くことである。御国にも働きがある。祈ることと働くこと(ベネディクト)が神の国のひな型ともいうべき修道院での行いであった。この世での忠実さが認められ、御国で多くのものがまかされ、この世での経験も御国でさらに豊かに生かされる(29)。何とうれしいことだろうか。だからと言って、御国は競争心があってストレスがたまるわけではない。それぞれが、完成された御国で主のために喜んで祈り働き、自らも本当に満たされる。何という祝福であろうか。地上の歩みはささやかでも、天での祝福は大きい。 29節では「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです」 とも言われている。つまり、忠実なしもべは、この世でも多く与えられ、多くまかせられ、祝福をされていく。逆に、与えられたタラントを使わないと取られてしまうこともあるから注意したい。 私たちの主なる神はどのようなお方だろうか。聖なる方であられ、私たちはその御前に罪深き者である。それゆえ、神を恐ろしく感じるかもしれない。しかし、神はイエス・キリストの父なる方でもあられる。十字架のイエスにあって私たちの罪を赦し、十字架で死んでよみがえられた生ける主イエスにおいて私たちを受け入れてくださる、愛の神であられる。しかも、神は私たちのご自身に対する愛による忠実な業(その中には不純なものも交じっているのだが)を、主イエスにおいて喜び受け入れ、祝福してくださるのである。 私たちの主人であられる主イエスは、いま聖霊において私たちと共におられ、私たちの小さな働きをご自分のこととして喜んでくださり、さらにさらに祝福してくださる。 それゆえ、私たちは自分に与えられたタラントを主の御前に感謝し、主にささげ、差し出し、主のために喜んで用いさせていただこう。そこに喜びが広がる。主に感謝! |