礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【説教アウトライン、2017年9月3日】 「キリスト告白」  マルコの福音書 14:53~72

神とイエスの前に、また、この世に対して、イエスは「主」(Ⅰコリント12:3)、「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)、「キリスト(メシヤ・救い主)」(マルコ8:29)と大胆に告白しよう。

Ⅰ 暗黒の法廷(14:53~65
ユダヤ宗教指導者たちによる宗教裁判は、最初からイエスを死刑にするためのものであった(55)。彼らは裁判の中で、訴因と証拠を適当に作り上げようとした。この裁判は検事と裁判官がいっしょであり、弁護人は無かった。だから、裁判の名に値しないものであった。
死刑判決後の議員たちのイエスへの蛮行(65a)に、人の罪の恐ろしさを見る。「虚偽は、天に住まう者に触れられては、ひとたまりもなく、すぐに自分の姿に戻る」(ミルトン『失楽園』)。聖なるものの前に人の奥底の罪はあらわにされる。にもかかわらず、彼らは自分の恐ろしい罪に気づかない。イエスを無視し、攻撃し、亡き者にしようとし、しかも恐るべき罪には気づかない。これが世の実態、罪人の姿である。

Ⅱ イエスの大いなる沈黙、大いなる告白(14:53~65)
買収された偽証人たちがいろいろ証言したが、一致を見なかった(56、申命記19:15)。かつてイエスが語った「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)とのことばを曲解した偽証もなされたが、一致はしなかった(57-59)。
大祭司の「不利な証言が出た」という揺さぶりにイエスは沈黙を保つ(60-61)。判決後の蛮行にもイエスは沈黙を守る(65)。
「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」(イザヤ50:6)、 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:7)。イエスは沈黙によってご自身が旧約で預言されたメシヤ(キリスト)であることを雄弁に証言したのである。
しかし、「あなたはほむべき方(神)の子、キリストですか」という問いには、大胆に「そのとおりである」と告白する。しかも、さらに「人の子(イエスご自身)が、力ある方(御父)の右の座に着き、天の雲に乗って来るのをあなた方は見るはずです」(62、詩篇110:1、ダニエル7:13)と宣言なさった。今は彼らがイエスをさばいている。しかし、世の終りの再臨のとき、イエスが究極的な審判者として彼らを(そして、私たちを)おさばきになる。

Ⅲ ペテロの大いなる否定(14:66~72
「あなたもイエスの知り合いだね」。女中の軽い一言に衝撃を受け、ペテロはとぼけて否定し(67-68) ⇒ 「誓って、『そんな人は知らない』と言った」(マタイ26:72) ⇒ 「のろいをかけて誓い始め『私は…その人を知りません』と言った」(71)。彼の否定はどんどんエスカレートしていった。
すぐに、鶏が2度目に鳴いた(72) ⇒「主が振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61) ⇒ ペテロはイエスの予告を思い出し ⇒ 「激しく」泣き出した(72、ルカ22:62)。
ペテロの否定の罪の重大さを思う(マタイ10:33)。しかし、十字架に向かうイエスの愛のまなざしがある。まなざしの前で泣け。

私たちは、罪深い世にあって、ののしりには沈黙し、審判者・主キリストを畏れ、イエスの底なしの愛を覚えながら、主を大胆に告白したい。弱く、不誠実な私のために、きょうも十字架と復活の主、愛の主イエスがともにいてくださるのだから。