礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年8月13日(平和記念礼拝) 説教アウトライン】  「平和を求めて生きる」 ヤコブの手紙 4:1~10

「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です」(暉峻淑子『対話する社会へ』)。
「イエス・キリスト抜きでは、憎しみや悲惨な戦争が起こる」(J・ディシェイザー宣教師)。 

私たち罪人は、平和をつくることよりも戦いや争いを起こすことの方が得意である。なぜか?

私たちの内にある「戦う欲望」が原因である(1)。怒りの感情、怒りのことば、怒りの行動のもとには必ず欲望がある。といっても、何かを欲することは悪ではない。それは人間が神に似せて造られたことの反映である(創世記1:26~27)。「戦う欲望」ということに注目したい。私たちの心の内には、複数の「欲望」(欲求)が心の支配権をめぐって戦っている。心を支配する欲望が、人生と言動に大きな影響を与える。この欲望同士の戦いの根底には、神を求めるか、神以外のものである被造物など(人、物質、名誉、支配力、知名度、注目、復讐…)を求めるかの葛藤がある。神の国(神の愛の支配)を求めるのか、自分の王国を築くことを求めるのかの内なる戦いと言ってもよい。本来私たちの心を支配するべきものは、私たちの心に御国を建てるためにひとり子(主イエス)を遣わされた神お一人である。しかし、私たちは神以外のものを過度に求め、その欲望に心を支配されてしまいやすい。そして、欲望は神と人への要求となり、欲求を実現しようとする自分の前に立ちはだかり、要求を満たすのを邪魔するものに対しては、激しい怒りや苦々しさを覚えるのである(2)。心が神以外の欲望(欲求)で支配される時、私たちはその欲望を満たすために祈るようになり、全能で、愛にあふれる神を私たちの欲望を満たすために仕える召使のように扱う。神以外のものを過度に求める欲望に心を支配される時、人は神から遠ざかり、時に怒り、戦い争うものとなる。

「貞操のない人たち」(4)。私たちは創造主ではなく被造物を拝む傾向がある(ローマ1:25)。神ではなく、神以外のもので心を満たそうとすること、心の支配権を神以外の人や物に譲ること、これが霊的な姦淫である。しかし、「神が私たちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(私たちを)慕い求めておられる」(5、新改訳聖書欄外の別訳)。神は、私たちが神に向けるべき愛を神以外のものに向けるのをねたましく思われる。そして、神は私たちの心の内なる戦いに完全に勝利を収めるまでは決してあきらめない。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」(6)。神は主イエスの聖霊において私たちの内側に働きかけ、神を求めるか、それ以外のもの・被造物に心を向けるのかという心の中の戦いに打ち勝つ恵みを与えてくださる。

「主の御前にへりくだりなさい」(10)。不当な怒りや争いは、心の偶像礼拝(神以外のものを激しく求める欲望・むさぼり)の表われである。それゆえ、神に向かって悔い改め(方向転換し)、救い主イエスを信頼し、聖霊によって神を礼拝すること、この神への礼拝という土台から、人との平和も築かれていく。
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(6)。それゆえ、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)。

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)。
キリスト者は神の子どもとして、平和をつくるために召されている。神を第一とし、平和の神に心を支配していただこう。そのようにして、神との平和の中に生き、心の平和(平安)を豊かにされ、人との平和を促進するための真実な対話と実践を重ねていきたい。