礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年8月6日 説教アウトライン】  「主は見捨てず、逃げず」   マルコの福音書 14:43~52

不真実な私たちは、真実であられる主イエス(Ⅱテモテ2:13)に対し、いかにすべきか?
ゲッセマネの園で3時間(37)の苦闘の祈りを祈り抜き、勝利して立ち上がったイエスは、祭司長たち(宗教議会・宗教裁判所)から差し向けられた群集(神殿警備隊、大祭司のしもべ、ローマ兵士)によって逮捕される。十字架は翌朝に迫っていた。

Ⅰ 恐るべき重大な罪に気づかず、さらに罪を重ね行くイスカリオテ・ユダ(14:43~45)
「十二弟子のひとり」(10,43)イスカリオテ・ユダは、主イエスを売り渡す約束をしていた(11)。ユダは最後の晩餐の席に主とともについていたが、いつしか姿を消していた(ヨハネ13:30)。
主の祈り場ゲッセマネの園に、夜が更け暗くなって、ユダが群集を先導してやって来た。知恵ある彼の計算どおり。弟子たちは居眠りしている。武装した者たちは多数連れて来た。イエスを確実に捕らえるための合図も決めていた。それは師弟の情愛を表わす「口づけ」であった。群集と無関係を装い、逮捕という危機を察して主を慰めると見せかけ、ユダは主を放さず強く口付けした。ユダの口付けは主の心を激しく傷つけたことであろう。
罪の重大さに気づかず、罪に罪を重ね行く人間の愚かしさを見る。むしろ、自分の罪の恐ろしさに気づき、悔い改めの涙をもって、「御子に口づけせよ。…道で滅びないために」(詩篇2:12)。

Ⅱ 祈り抜くことができず、醜態をさらしてしまったペテロら弟子たち(14:46~52)
ペテロ(ヨハネ18:10)は、主イエスを逮捕する群衆のひとり、大祭司のしもべの耳を切り落としたが、主に「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)と叱責された。祈り抜かず、主のみこころをわきまえず、冷静さを失い、血迷ったペテロ。
結局、弟子たちは「みながイエスを捨てて、逃げてしまった」(50)。弱さを認め、みこころを知るため、みこころに従うために祈り抜かないならば、弟子たちのこのような醜態をさらすことになる。
10代末の匿名の弟子、「ある青年」(51)も亜麻布を脱ぎ捨て、素っ裸で逃げた。彼は最後の晩餐の家の息子であり、福音書記者のマルコ自身であると考えられる。彼も逃げた。彼は30代の時も、パウロとバルナバとの伝道旅行の途中で逃げてしまった(使徒13:13)。逃げた青年のエピソードを書き込み、マルコは自分の福音書に、おのれ弱さ、ふがいなさ、不真実さを刻印した。そして、こんな者だからこそ自分には生涯、救い主イエス様が必要なのだと肝に銘じたのである。

Ⅲ 祈り抜いた主イエスの決然として、凛とした堂々たる姿(14:43~50)
主イエスはユダの口付けにあわてず、血迷うペテロを静かにいさめ、暗やみに乗じて逮捕しようとやって来た群衆の卑劣を突くことばを述べ、群集と弟子たちの間に割り込んで、弱りきっている弟子たちを(彼らの弱さを思い知らせるため、また、よりひどい罪を犯させないため)逃がし、主はご自身を自ら群集に引き渡された。祈り抜かれた主は、御父に信頼し、決して逃げず、御父の絶対的な愛の御手に、神の完全なご計画に身をゆだねたのである。

人は主イエスに対して不真実。主を信じ、主について行くことにおいていい加減。しかし、主は私たちに真実であられる。私たちをなおも愛し、赦し、招いてくださる。すべてを見たら逃げ出したくなるだろう私の恐ろしい罪を、主は逃げずに背負って十字架で贖ってくださった。逃げるマルコも見捨てず、真実に育てられた(コロサイ4:10、Ⅱテモテ4:11)。主は私たちを見捨てず、逃げず、いつも真実。主イエスの前から逃げないように。弱さのまま、十字架と復活の主の御前に出よう。