礼拝説教 遠藤 潔 牧師
【2017年7月日30 説教アウトライン】 「ザアカイ」 ルカの福音書 19:1~10 「きよい、罪のない」という意味の名を持つザアカイは、当時イスラエルを支配するローマ帝国の関税徴収を請け負う「取税人」の「かしら」で、その名とは裏腹に、不正に税を取って私腹を肥やしていた。だから「金持ち」(2)で、当然人々からは嫌われていた。イエスがエリコの町にやって来たことを耳にしたザアカイは、イエスがどんな人かを見ようとしたが、背が低く、群衆にさえぎられて、イエスを見ることができなかった(3)。そこで彼はいちじく桑の木に登り(4)、高みからイエスと群衆を見下ろした。彼の心の表面にあった思いは、イエスへの好奇心、そして、自分を見下げる群衆を上から見下し返すことであったろう。 ザアカイとしては木の上からイエスを眺めれば十分であった。しかし、イエスはご自分からザアカイに近づき、木の下に立って、上を見上げ、「ザアカイ」と彼の名を呼ばれた(5)。イエスはただ物理的に「上を見上げ」(5)ただけではない。ザアカイの表面からは隠れた内面をご覧になったのである。どんなにお金があっても心が満たされないむなしさ、人々から嫌われた孤独な生活を送る寂しさ、真の愛を求めてのうめき叫び、人々をだまして罪を犯し続けている後ろめたさ、神から離れているという不安・・・。イエスはザアカイのすべてをご覧になり、彼のすべてを受けとめられたのである。 イエスは言われた。「きょうは、あなたの家に留まることにしてあるから」(5、新共同訳では「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」)。イエスは、ザアカイの家に「泊ることにしてある」という堅い決意と、「泊りたい」という熱い願いをもって、「降りて来なさい」とザアカイを招いた。ザアカイはイエスの呼びかけに応え、「大喜びでイエスを迎えた」(6)。 イエスは神の御子、神であられながら人となられた方、「人の子」。神がどのような方であられるのかは、イエスを見ることによってわかる。イエスはザアカイを捜し、訪ね、親しんでくださった。神はそのような方である。神は創世記のアダムとエバの時からいつも、ご自分から私たちを捜し、名を呼び、私たちのかけや飢え渇きを満たそうと出会ってくださる。私たちが神を求める以上に、神ご自身が私たちを捜し求めて、近づき来てくださるのである。ザアカイは「急いで降りて来なさい」との主イエスの呼びかけに応えて、「急いで降りて来た」(6)。信仰は、神の呼びかけに誠実に応えることから始まる。そして、信仰生活は、みことばを通して語りかける主イエスの呼びかけに、日々応えることである。 ザアカイはイエスを自分の家に迎え入れた。イエスが彼の家、彼の人生、彼の生活にお入りになった。「きょう、救いがこの家に来ました」(9)。ザアカイはアブラハムと同様の信仰で救い主を迎えたのである(9、ローマ4:12)。ザアカイはイエスとの出会いによって、愛を豊かに注がれ、新しい人とされ、罪の赦しと永遠のいのちと神の子としての身分をいただいた。イエスとの交わりの中で、新しい人としての歩みが始まった。彼は主の愛の圧倒的な支配の中で、むさぼりと孤独の人から、愛の人、隣人の友に変えられた(8)。償いと施しはその救いの結果である。 「人の子(イエスの自己称号)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10)。神は愛をもって御子を世に遣わし(ヨハネ3:16)、主イエスは聖霊において私たちのもとに日々来ておられる(同14:16,18)。私たちを罪から救い、本来の姿(堕落前のアダムの姿、そして、「キリストのかたちと同じ姿」(Ⅱコリント3:18))へと、いよいよ救い出すために。私たちも日々、この主イエスを必要としている。主をいつも喜び迎えたい。 |