礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年7月23日 説教アウトライン】  「ラザロの復活」  ヨハネの福音書 11:1~46

 イエスはいのちを支配する神、死に勝利された復活の主、罪人にいのちを取り戻させ、活かしてくださる救い主。「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)。

 福音書を見わたすと、イエスが死者を生き返らせた記事が3回出てくる。第一に、ナインの町のやもめのひとり息子の場合(ルカ7:11~17)、第二に、会堂管理者ヤイロの12歳になる娘の場合(マタイ9:18~26、マルコ5:21~43、ルカ8:40~56)。そして、第三に、ベタニヤ村の姉妹マルタとマリヤの兄弟ラザロの場合(ヨハネ11:1~44)である。

 ベタニヤ村の姉妹マルタとマリヤの兄弟ラザロが病気で、瀕死の状態であった。姉妹たちはイエスのもとに使いを送り、告げた。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3)。
自分や親しい者が病むとき、私たちもイエスに向かって大胆にそう告げたい。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」と。
 イエスは答えてくださる。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4)と。
神の考えは私たちの理解を超えていることが多い。しかし、どんな状況でも、御父とイエスは私たちを愛しておられ(5)、必ず最善をなし、ご自身の栄光を現わしてくださる。辛いこと、不可解なことを前にして、「なぜ」と問うのではなく、「何のために」と問いたい。主を信頼して、前進したい。

 ラザロは死んで墓に葬られ、すでに4日も経っており、もう腐敗も始まっていた。ようやくイエスが到着した時、マルタもマリヤもそれぞれに、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32)と言った。
「終わりの日のよみがえり」(24、ダニエル12:2)は信じていても、目の前の死は彼女たちを圧倒し、彼女たちは泣いた。親しい人々も泣いた。泣くこと以外、どうすることもできなかった。
 「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)。私たち罪ある人間の悲惨は、罪に支配され、罪という主人に生涯仕え、しかも、その主人は最後に何か良い報酬をくれるかと言うとそうではなく、「死」を報酬としてくれるというのである。
イエスは、人類の代表者アダムの堕落によって罪ゆえに死ななければならない人類(ローマ5:12)を深くあわれみ、死という事実に対して激しい「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られ(33)、愛する者の死に「イエスは涙を流された」(35)。ここに、ともに泣いてくださる主の愛を見るのである(ローマ12:15)。
 イエスはラザロの墓の石を取り除かせ、大声で「ラザロよ。出てきなさい」と言われた。すると、死んでいたラザロが、亜麻布で顔と手・足・胴体を巻かれたまま墓から出てきた。
イエスはいのちを支配する神、いのちを取り戻させてくださる救い主!

 イエスは、愛する者を失う痛み、死に対する憤りを、身をもって深く経験された。そして、御父のおこころに従って死に立ち向かい(マタイ26:42)、十字架へと歩みを進められたのである。
 主イエスは人類の新しい代表として、私たちの罪と死を引き受けてくださった。主イエスは私たちに代わって十字架につき、私たちの罪を代りに負って、神の罰を受けて死なれた。イエスの死は、罪深い私たちの死を死んでくださった死であった。イエスの十字架において、罪深い私が神のさばきを受けて呪われて死んだのである。
 そして、イエスは、死を打ち破ってよみがえられた。生き返らされたラザロはその後何十年か生きただろうが、寿命が来てやはり死んで葬られた。しかし、イエスはよみがえって二度と死ぬことなく、永遠のいのちをもって、栄光のからだで、天の父なる神の右に挙げられた。
神はこのイエスにおいて、罪の刑罰である死を断ち切り、永遠のいのちへと私たちを招いてくださる。

 「わたしは、よみがえり(復活)です。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(25,26)。
 復活とは、死から始まるいのち、死をくぐって輝き出すいのち、死によってもなくならないいのちである。
 「復活そのもの」であるイエスを離れて復活はない。イエスを信じて歩むとき、私たちは復活の歩みを与えられる。倒れても立ち上がらされ、窮しても再び開かれ、日々新たに引き上げられ、人生の最期は永遠への門口となり、歴史の終局には栄光のからだへの復活が現実のものとなる。復活の主イエスは生きたもう。