礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年7月16日 説教アウトライン】 「呼び求め、手を差し伸べる神」  ローマ人への手紙 10:16~21

 「ローマ人への手紙」の第二部(9~11章)で、パウロは同胞ユダヤ人、すなわち、イスラエル民族の不信仰の問題を取り扱いながら、神の救いの本質に迫っていく。第二部は「イスラエルとキリスト」が主題となっている。
 神は、信じようとしないイスラエル民族を見捨てることをせず、一日中手を差し伸べて待っておられる。神の愛は絶対で、親の愛のような変わらぬ愛をもって、イスラエルが立ち返って救われるよう呼びかけ、招き続けておられる。パウロは、その神の招きを、多くの預言のことばを引用しながら強調する。
 聖書を読むとき、自分に引き付けて読みたい。本日の箇所では、ご慈愛深い神と自分の愛を比較してみたり、パウロの情熱と自分の姿勢を比べてみたり、イスラエル民族(ユダヤ人)や異邦人と自分を重ねてみたりすることは、有益である。特に、本日は自分とイスラエルを重ねてみたいのである。

Ⅰ イスラエルは聞いていた、しかし、信じなかった(10:16~18)
「信じたことない方を、どうして呼び求めることができるでしょう」(14)。信じていない方を呼び求め、告白し、礼拝することはできない。
しかし、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15・新共同訳、イザヤ52:7)。神は、多くの使徒や伝道者たちを「時にかなって」(伝道3:11)遣わし、福音(受肉と十字架と復活のキリストが罪と死から救ってくださるという良き知らせ)を伝えさせたので、イスラエル民族はすでに福音を聞いていた。 
「信仰は聞くことから、聞くことはキリストのみことばによる」(17)。イスラエルは、復活して天に昇られたキリストが、聖霊によって、説教者たちを通して、ご自身に関して語られたみことばを聞いたのである。にもかかわらず、彼らは信じず、キリストとその福音を拒絶した。
「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」(16、イザヤ53:1)。彼らの責任は重大である。
 「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。むろんそうではありません。『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた』」(18、詩篇19:4)。
 イスラエルは、福音を聞いていながら、宗教的であるがゆえに、宗教的伝統と偏見により、イエスはメシヤ(キリスト、救い主)と信じることができず、福音に活かされることがなかった。

Ⅱ 神は異邦人を救い、イスラエルを救う(10:19~21)
 「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる」(19、申命32:21)。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した」(20、イザヤ65:1)。イスラエル民族の不信仰によって、キリストの福音は異邦人に伝えられ、彼らは救われた。
 しかし、神は決してイスラエルを見捨てられたのではない。「(イザヤは)イスラエルについてはこう言っています。『不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。』」(21、イザヤ65:2)。神の愛は変わることがない(エレミヤ31:3)。神は「不従順で反抗する」イスラエルに、辛抱強く、忍耐深く、あわれみをもって語り続けておられる。「一日中、(両)手を差し伸べ」続けておられる。
 この神の姿は、放蕩息子の父親のイメージと重なるではないか(ルカ15:11~32)。放蕩息子の父親は、息子が帰って来るのをひたすら待っていて、ひとたび彼が帰って来ると、彼を責めず、赦し、使用人としてではなく息子として迎え入れ、祝宴を開いて喜んだ。レンブラントの絵画「放蕩息子の帰還」では、父親の両の手は左右で大きさが違い、一方は父の手、一方は母の手となっている。神はイスラエルをご自身の全人格をあげて、迎え入れようとしておられる。
 このように、神のみこころは変わることなく、イスラエルの救いのご計画は成就する(11:25~26)。

 私たちにとっても「イスラエル」のことは他人事ではない。「神のイスラエルの上に、平安と憐みがありますように」(ガラテヤ6:16)。私たちも信頼と感謝をもって、神の伸ばされた御手に身をゆだねたい。