礼拝説教 遠藤 潔 牧師


 【2017年7月9日 説教アウトライン】  「信仰は聞くことから」  ローマ人への手紙 10:11~17

 神はキリストによって、罪人の救いに必要なすべてをすでに成し遂げられた。
御子キリストが人となって地に下り、神に服従し、十字架で罪の贖い(罪の刑罰を受ける身代わり)の死を遂げて葬られ、死人のうちに下り、死と悪の力に勝利して復活し、天に上げられ、御父の右の座にお着きになった。それゆえ、キリストこそ私たち罪人の完全な救い主である。キリストの内に、罪の赦しと永遠のいのちとあらゆる救いの祝福がある。
 救いのみわざを成し遂げて天に上られたキリストは、いま、信仰のことば(福音)において、そして聖霊において、教会とキリスト者に現臨しておられる。信仰とは、このキリストを受け入れ、迎えることである。
「イエスはいま生きておられる、私の主であられる」。この信仰のことば(福音)を聞いて、人格の中心である心で信じるなら(口での告白はその当然の成り行き)、神の御前に義と認められ、救われる(10)。罪の赦しを受け、神の子どもとされ、イエスとの交わりの中に永遠に活かされていく。

Ⅰ 主イエスを信頼し、主を呼び求める者の幸い(10:11~13)
 「いま生きておられる、私の主であるイエス」に、「信頼する者は“だれもみな”、失望させられることがない」(11、イザヤ28:16、パウロは“だれもみな”を加え強調しているが、「新改訳」では訳されていない)。
 イエスを信じて神の御前に義と認められ、救われることについては、ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)の区別はない。イエスはご自身を呼ぶ者に対して例外なく、恵み深くあられる。無限大の恵みをくださる。
 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(13、ヨエル2:32)。
 救い(罪の赦し、永遠のいのち)のことも、日々の一つ一つの営みのことも、ことごとく、主イエスに信頼して主イエスを呼び求めよう。主との交わりの中で、恵みを受け続けていこう。

Ⅱ 私の救いは、「神から発し、神によって成り、神に至る」(10:14~15)
 パウロは、人が主イエスへの信仰に導かれ、「イエスは主」と告白する(すなわち、神を礼拝し、神と交わる)ようにされるに至るプロセスを、4つにまとめて語る。
 ① 人は、自分が信じていない方を呼び求める(告白する)ことはできない。
 ② 人は、聞いたことのない方を信じることはできない。
 ③ 人は、説教者・宣教者なしには聞くことができない。
 ④ 神が派遣なさるのでなければ、どの説教者・宣教者も来ることはできない。
 私がいま主イエスとの交わりに活かされていることは、当たり前のことではなく、驚くべきこと、すごいことなのである。まさに神のみわざにほかならない!
すなわち、「三位一体の神が説教者・宣教者を派遣し」(④)、
「派遣された説教者・宣教者が福音(イエスのこと)を語り、私がイエスのことを聞き」(③)、
「聞いた私がイエスを信じ」(②)、
「信じたイエスを呼び求め、(義と認められ、救われ)、主イエス(また、三位一体の神)との交わりに入れられた」(①)、のである。
私の救いはまさに神からのもの、神の導き以外の何ものでもない。「神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15・新共同訳、イザヤ52:7)。「美しい」とは、「時にかなって美しい」(伝道者3:11)ということ。
 さびしい荒野において、帰国途上のエチオピア女王の宦官のもとに遣わされた伝道者ピリポの歩みはまさにその好例である(使徒8:26~40)。私たちもまた、人生の途上で、時宜にかなって福音を語る者と出会わせられ、イエスのことを聞くように導かれた。そのような導きをくださった神に感謝したい。
  
Ⅲ 信仰生活の原点は、キリストのことばを聞くこと(10:16~17)
 「信仰は聞くことから、聞くことは、キリストのことばによる」(原文直訳)。
耳で「聞き」(目で読み)、口で「訊き」(質問し)、心で「聴く」。
 主イエス・キリストへの信仰は、キリストのことば(福音のことば、聖書のことば)を聞き、問いかけ、キリストからのことば(愛の語りかけ)としてく聴くことから生じ、養なわれる。その逆ではない。
そして、信仰を通して、主の恵みはさらに注がれ、満ちあふれる。

 ベタニヤ村のマリヤのように、主イエスの御前にすわり、主の愛の語りかけを静聴しよう(ルカ10:39)。そこから、信仰者の生は始まり、信仰生活は豊かにされる。