礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年7月2日 説教アウトライン】  「主イエスの祈り」  マルコの福音書 14:27~42

 “お祈り”が“おいねり”に! でも、落ち込む必要はない。それは祈りに真剣に取り組んだ証しでもあろう。
天の父(神)に祈ることは素敵なこと。主イエスは私たちを祈るようにと招く(32)。主イエスの祈りの交わりへと招いておられる。
イエスの十字架は翌朝に迫っていた。イエスは弟子たちのつまずきを予告した後、ゲッセマネの園で3時間ほど(37)の苦闘の祈りをする。

Ⅰ イエスの弟子たちは、つまづきやすい弱い羊であるゆえに祈るべきである(14:27~31)
 イエスは、弟子たちがみな、つまずき、ゼカリヤが「わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる」(ゼカリヤ13:7)と預言した通りになる、と言われた(27)。現にイエスが逮捕された時、弟子たちは逃げ、散り散りになった(50)。
 キリスト者一人ひとりは、つまずきやすい弱い羊。教会も主イエスなしには立ち行かず、主イエスを仰ぐことにおいて初めて一つとされ、一致が与えられる。「主よ。あわれみたまえ」と祈らざるを得ない存在である。
イエスはそんな弱い弟子たち・私たちのために十字架で贖い(神への罪の償い)を成し遂げて死なれ、死に勝利して復活し、「ガリラヤ」(いわば、原点・振り出し)で待っていて(28)、弟子たち・私たちを立て直し、再結集し、活かし、用いてくださる。
 しかし、ペテロら弟子たちは、「私はつまずきません」「あなたを知らないなどとは決して申しません」(29,31)と言い張り、自分が「強い者」「できる者」と勘違いし、「人間としての弱さ」「罪人としての弱さ」(38)を自覚せず、祈ることができず、いや、祈りぬくことができず、本当につまずき倒れてしまった。
 旧約聖書の創世記4:26にこう記されている。
「彼(セツ)は、その子をエノシュ(弱い人間)と名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」。弱いがゆえに祈るのである。強い人は祈らないし、祈れない。弱さを自覚した者は祈るしかない。弱さを自覚し続ける者が、祈り続けることができる。

Ⅱ 祈り抜いて、立ち上がり、勝利したイエス(14:32~42)
 イエスは祈り抜いた。すでにこの週の初めから祈り始め、祈り続けていた(ルカ21:37、22:39「いつものように」、ルカ39:40「いつもの場所で」」。この夜も「1時間」(37)の祈りを3ラウンド(37,40,41)祈り抜き、敢然と立ち上がり、十字架へと向かって行った。
「イエスは深く恐れもだえ始められた」(33)。イエスにとって十字架は耐えられないほどの恐れと苦しみであった。肉体の苦痛、人々から嘲笑される精神的苦痛、罪なき方が身代わりに多くの人の罪を負う霊的苦しみ、その罪のゆえに神のさばきを受け、御父から引き裂かれる最極度の全人的苦しみ。
 十字架を前にしてイエスは「人間としての弱さ」を自覚し、深く恐れもだえ、弟子たちの見守りと祈りの応援を頼んだ(32,34,38)。そして、御父の前に倒れひれ伏し(35)、苦しみの十字架を取り除けて欲しいとさえ願った(35,36)。
 しかし、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」十字架の死が、御父のみこころであると知っておられたので(8:31、9:31、10:33~34,45)、祈り抜いた。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(36)と。「みこころを受けとめ、喜んで従い、そうして、みこころが実現し、あなたの栄光が現われますように」と祈ったのである。
弱さの中でもみこころに従いたいという熱意の祈りを通して、イエスは強められ、立ち上がる。


 弟子たちは祈り抜くことができなかった。それで、彼らはイエス言われた通り「散り散り」になり(27)、イエスを捨てて逃げてしまった(50)。この「散り散り」「ばらばら」とは、私たち罪人の実態であり、人は神に祈らなければ、散り散り、ばらばらなのである。神との関係が散り散りになる。隣人との関係が散り散りになる。自然との関係が散り散りになる。からだと心、霊と身体が散り散りになる。
 「目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(38)。
 しかし、祈りによって散り散り、ばらばらの状態に統一が与えられ、統合と調和が与えられる。それゆえ、私たちは祈るために座ろうではないか。

 十字架と復活の主イエスは、今日も御父に祈っておられ、ともに祈るようにと私たちを招いている。
 聖霊も私たちの内から祈り助けてくださる(ローマ8:26)。
 そして、聖徒たちの祈りが私たちを包む。
 この祈りの交わりの中で、私たちは「心と肉体」(38)、霊と身体、信仰と生活、教理と実践は一つにされ、キリスト者も教会も主のみこころを活きるものとされる。