礼拝説教 村瀬 俊夫 先生


【2017年6月18日 説教アウトライン】  「キリストこそ私たちの平和である」  エペソ人への手紙 2:14~19

 キリストこそ私たちの○○である。この○○に、あなたが入れたい言葉は何か。いろいろな言葉を入れることができる。「救い」「いのち」「望み」「すべて」など、どれもぴったりだ。「信」も「愛」も悪くない。「憧れ」や「拠り所」も良い。でも、「平和」を忘れてはいけない。「キリストこそ私たちの平和である」のだから。これこそ使徒パウロが、ここで一番言いたいことであり、そのことを[とても大事な真理として]強調しているのである。
 イエスは、地上での宣教活動を終えるに当たり、地上に残される弟子たちに珠玉のような言葉を残された(訣別遺訓)。「わたしは、あなたたちに平和を残す。わたしは、あなたたちにわたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)。イエスが与えたいのは「わたしの平和」である。この世が与えることのできない、イエスだけが与えることのできる平和。それはどんな平和か。復活のイエスは、「平和があなたたちにあるように」(ヨハネ20:20)と言って、身をひそめている弟子たちのところに現れた。その平和とは、十字架で死んで復活したイエス、このイエスだけが与えてくれる平和である。それは無条件の赦しと永遠のいのちに裏打ちされた平和で、それを受けた者たちを神の子とし、[父である]神との親密な交わりに導き入れてくれる。
 「平和」の用例はパウロに比較的多い(26例)。ローマ書が10例、エペソが8例。パウロにとって、救いとは(救いの目的とは、と言い替えてもよい)、人が神との平和を得ること、神と和解させられることである。イエスにとっても、パウロにとっても、神がイエスを世に遣わしたのは、人々に「神との平和(もしくは神との和解)」という救いを得させるためである。それでパウロは、神をしばしば「平和の神」と呼んでいる(ローマ15:33;16:20、コリントⅡ13:11、ピリピ4:9、テサロニケⅠ5:23、テサロニケⅡ3:16)。わけても大事な聖句は、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5:1)。
エペソ2:14-16で、「キリストこそ私たちの平和である」と宣言されるのは、対立し合う「二つのもの(ユダヤ人と異邦人)をご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するため」に、ご自身の十字架と復活の出来事によって、[平和の実現を妨げる最大の要因である]敵意を廃棄してしまわれたからである。ここには、十字架と復活の福音への深い洞察が示されている。この福音によって、敵意は葬り去られたのである。この恵みのリアリティを聖霊の導きの中で黙想し、しっかり身につけるようにしたい。そのために役立つ霊的修練の一つがアシュラムである。
 復活のキリストが今、ここに来られて、ここにいる誰に対しても分け隔てなく、平和を福音してくださっている。想像してみてほしい。私たちは今、このキリストによって、聖霊に導かれて父なる神のみもとに近づいていることを(18節)。私たちは確信する。私たちの平和であるキリストにあって、神の家族とされていることを。私たちは、まさに「神の家族」なのである(19節)。