礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年6月11日 説教アウトライン】 「みことばはあなたの近くに」 ローマ人への手紙 10:5~13

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められる」(4)。
キストは神と人を徹底的に愛するという律法の根本を生き抜き、神に従い、(律法違反のさばきをも十字架で代わりに受け)、律法を完全に満たし、成就し(マタイ5:17)、神の前に義となられた(Ⅰコリント1:30)。それゆえ、キリストを「信じる人はみな」、キリストにあって義と認められる。
10:5~13は、このことがパウロの新しい発案ではなく、旧約聖書の教えであり、神が常にその原則によって罪人を受け入れて来られたとを、旧約聖書からの引用によって示すところである。 

Ⅰ 律法による義を行う人は、その義によって生きる(10:5)
この節はレビ18:5からの引用であり、「律法による義」(律法遵守によって神の前に義と認めてもらう)という立場を取るなら、律法を完璧に行う道をたどらなければならないことを示す。そのような道で「生きる」ことができる人はいない。律法の一つの点でつまずくなら、その人は律法すべてを犯した者とされるからである(ヤコブ2:10、申命27:26)。
すべての人は罪のゆえにゆがめられているので、律法を完璧に行うことはできず、律法によって義を手に入れることは不可能なのである。しかし、信仰による義はそれとは違い、神からの賜物として与えられる。

Ⅱ 信仰による義は、「みことばはあなたの近くにある」と言う(10:6~10)
 6~8節はいずれも申命記30:11~14からの自由な引用であり、ここでパウロは、信仰の義は「信仰のことば」、すなわち、生ける福音のことばを聞くことであることを示す。
旧約聖書を読む時、それを福音のことばとして読む必要がある。
一例として、創世記6:8の「ノアは、主の心にかなっていた」を取り上げる。このことばは、彼がわれわれとは違う、とても立派な人間であったと言っているものではない。これは「ノアは、主の前に恵みを得た」(口語訳)ということであり、彼が主の恵み(身を乗り出される神の愛)を発見し、それを受けとめた、ということにほかならない。彼も神の前には欠け多い者であったが(創世9:20~29)、そのような彼を覆い、赦してくださる神の恵みに彼は信頼し生かされていたのである。ここにもまた恵みの福音を読み取ることができるのである。
「だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない」(6、申命30:12)、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない」(7、申命30:13)。「だれが? 私が頑張ってやってやるぞー」とも、「だれが? だれもできないさー。もう絶望的」とも言ってはならない。御子キリストが人となって地に下り、神に従い、十字架で罪の贖い(罪の刑罰を受ける身代わり)の死を遂げ、葬られ死人のうちに下り(以上、キリストの謙卑の状態)、死と悪の力に勝利して復活し、天に上げられ、御父の右の座にお着きになった(以上、キリストの高挙の状態)。このキリストとそのみわざを無視してはならない。神はキリストによって、人の救いに必要なすべてをすでに成し遂げてくださったのである。
その上、信仰のことば(福音)は「あなたの近くにある」(8)。救いのみわざを成し遂げて天に上られたキリストは、いま、みことばにおいて(そして聖霊において)、教会とキリスト者に現臨しておられる。その近さは、「口にあり」「心にある」と言われるほどで、「私たちの宣べ伝えている信仰のことば」が教会の説教で私たちに伝えられる時、キリストの義は信ずる者によって受け取られ、キリストを信じる者は救いの祝福を豊かにいただくのである。
信仰のことばの内容は(9)、「イエスは主(神、救い主、私の支配者)」であること、イエスの「復活」(それはまた、受肉、十字架の死に至るまでの服従と死、復活、昇天をも含む、ピリピ2:5~11)。「イエスはいま生きておられる、私の主」という信仰のことばを聞いて、人格の中心である心で信じるなら(口での告白はその当然の成り行き)、神の御前に義と認められ、救われる(10)。

「いま生きておられる、私の主であるイエス」に「信頼する者は(だれもみな)、失望させられることがない」(11)。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(13)。主に賛美!