礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年5月28日 説教アウトライン】  「最初の罪、広がる罪」   創世記 3:1~15

魚は水の中にいるとき、生き生きとして自由である。魚が自由を求めて水から飛び出したらどうか? 息苦しくなり、弱り、死んでしまう。人も同じである。人は神によって、神のかたちに創造され(創世記1:26~27)た。神との交わりに生きるように造られた。人は神との交わりの中に生きるとき、生き生きとし、本当に自由である。神を礼拝し、神の愛を信頼し、神のみことばを神の愛の語りかけとして受けとめ、祈りつつ、喜んでみことばに従うとき、人は生き生きし、自由に生きることができる。神との交わりこそ人のおるべき所である。

人は初めにエデンの園で、神との生ける交わりの中にいた。神のみことばに喜んで従い、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」(2:16)という自由の中に生き生きと生きていた。ところが、「自分のおるべき所を捨てた御使い」(ユダ6)であるサタン(悪魔)が、蛇を通して人を誘惑してきた。人を神との交わりから引き離そうと狙ったのである。
「園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」(3:1)と、サタンは人に問いかけた。「食べてはならない」というところを強調し、神がまるでけちん坊の神であり、愛と恵みの神ではなく、厳しくこわい方であるかのように思わせた。しかも「ほんとうに言われたのですか」と疑いの雰囲気を吹き込んだ。人は神の愛を疑い、また、「食べたら必ず死ぬ」(2:17)と仰せられた神の聖さと義しさをも軽視し、「人が神のようになれる」(5)というサタンの甘いことばに乗せられ、善悪の知識の木から取って食べてしまった(6)。こうして、人はみことばに示された神のみこころに背いて罪を犯し、サタンの支配、罪の支配の下に堕ちてしまった。罪の本質は、神を信頼せず、神に従わないこと。愛の神のみことばを軽視し、自分が神のように思いのままにふるまおうとすることである。
もちろん、人は神のようにはならなかった。むしろ、神を恐怖し、神との交わりから身を隠した(8,10)。神との生き生きとした関係が壊れ、霊的な死の状態、生きているのに死んだも同然の状態になった。息苦しくなり、弱り疲れ、望みと喜びが消失した。対人関係も、対自然関係も混乱した(12~13、16~19)。

しかし、神は人をあきらめなかった。「あなたは、どこにいるのか」(9)と人に呼びかけ、愛をもって人を追い求められた。そして、「おまえ(サタン)と女の子孫(イエス・キリスト)の間に敵意を置き、おまえは彼のかかとにかみつくが、彼はおまえの頭を踏み砕く」(15)と福音を宣言し、イエス・キリストによる勝利を約束された。「この福音の約束を受けとめ、わたしの愛の中に生きよ」と迫られたのである。
神は今日も私たちを追い求め、愛をもって呼びかけておられる。「わたしはなおも、あなたと交わろう。生涯の従順と十字架の死と復活によって、サタンと罪と死に勝利されたイエス・キリストによって、わたしに近づいてきなさい。さあ、わたしとのいのちの交わりに生きなさい」と。
神はすべての人に呼びかけている。「あなたは、どこにいるのか」。神との交わりのうちにおるか、神の心のうちに、神の愛のうちに、神のみことばのうちにおるか、と。