礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年5月14日 説教アウトライン】  「律法の終わり・キリスト」  ローマ人への手紙 10:1~4

聖にして義なる神の御前で人はいかにして正しくあり、神に受け入れられることができるのか”。この大問題に対して「福音」、良き知らせが示される(1:16~17)。それは、神の義は信じる者に神から与えられ、信じる者は救いを受けるという良き知らせである。

福音は先ずイスラエル(ユダヤ人)に、次に異邦人に示され与えられた。しかし、異邦人の方が福音に心開き、イスラエルは拒絶していた。なぜか? 9:30~10:21は人間の責任という視点で考えていく。
神は世界に救いをもたらすためイスラエルを選ばれた。神は彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、彼らの神となり、彼らの中に住んでくださった。さらに、神のご意思を示す「律法」を与え、神を愛する道を教えてくださった。しかし、イスラエルは神に義と認めていただく手段として律法を追い求めた。自分の力で良い行いをし、一生懸命律法の要求を満たして神に義と認められ、救われようとした(9:31~32)。しかし、罪人の不完全な行ないは、義なる律法を満たすことには到達しない。行ないによっては神の義を得ることはできない(9:31~32)。結局、無力感か欺瞞か、人と比較しての優越感や劣等感に陥るだけである。

Ⅰ パウロの祈り ~ 彼らの救われること ~(10:1)
 パウロの心の望み、神への祈りは、同胞ユダヤ人の救いであった。彼らが素直に神のみこころを認め、救い主イエス・キリストを信じるようにと祈っていた。
私たちも家族・友人・同胞が真に救われ、神との愛の交わりの中に生きるようになることを、願い、神に祈ろう。

Ⅱ パウロの証し ~ 正しい教理に基づかない熱心の危険 ~(10:2~3
パウロは、同胞ユダヤ人がいかに宗教的で神に対し熱心であるかを証しする。神に対して熱心であることは良いことであるし、必要なことでもある。しかし、彼らの熱心は「知識(エピグノーシス)」に基づくものではなかった(2)。
この「知識」は、単なる「知識(グノーシス)とは区別される、神の啓示に基づいて得られる知識。神のみことばの教理(それは神の恵みの教理)と言っても良い。正しい教理に基づかない熱心は、(熱心を伴わない教理理解と同様に)危険である。自己義認と自己主張、またその裏返しとしての不安と焦りとなる。パウロ自身もかつてはそうだった(ピリピ3:5~6)。
パウロは、彼らの無知が「神の義を知らないで、自分自身の義を立てる」ことにあると言う。自分の努力によって義を得ようとする試みは、神ご自身が差し出しておられる救いの方法、すなわち、「神の義(神の側から差し出してくださる義)に従わない」ことである(3)。自分の誤った熱心で、神の好意を無にすることである。

Ⅲ パウロの確信 ~キリストは律法の完成・終わり~(10:4)
「キリストが律法を終わらせられた」。「終わり」と訳された語(テロス)は、「終わり」と「目標(成就・完成)」の二つの意味を持つ。
キリストは神と人を徹底的に愛するという律法の根本を生き抜き、律法を完全に満たし、成就した(マタイ5:17)。そして最期に「完了した」と宣言された(ヨハネ19:30)。キリストにおいて、義に到達する方法としての律法の働きは完全に終わった。キリストが律法を成就し、神の前に義となられた(Ⅰコリント1:30)ので、ユダヤ人だけでなく異邦人も、キリストを「信じる人はみな」、キリストにあって義と認められる。

キリストへの信仰のみにより神の前に義と認められ、神との永遠の愛の交わりに入れられた私たちは、ただ感謝あるのみ。自己義認や自己主張、不安や焦りにもって生きるのではなく、平安と感謝もって生き、神と人への愛に生きるのみである。