礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年5月7日 説教アウトライン】    「主の晩餐」   マルコの福音書 14:12~26

主イエスの食卓は実に豊かである。主はその食卓に私たちを招かれる。主の食卓にあるものは何か?

十字架の前夜の主イエスと十二弟子との過越の食事。それは最後の晩餐であった。そして、最後の晩餐は最初の聖晩餐(聖餐)となった。

Ⅰ 主イエスは、特別な食卓を備えて待っておられる
ユダヤ暦の正月(西暦の3~4月)の14日が過越の祭。この日の夕方、過越の小羊がほふられ、14日の夕から21日夕までは種なしパンの祭である。日が沈んで日付が変わり(ユダヤ時間は日没から一日が始まる)、15日の夜が過越の食事、7日間は種なしパンを食べる。かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民は、神の命令に従って小羊をほふり、その血を戸口に塗って滅びが過ぎ越され(過越)、エジプトから解放された。彼らは脱出に当たり、ほふった小羊を食べ尽くし、種なしパンを用意して、急いで出て行った。このようなイスラエルの解放と救いの出来事を覚えるため、毎年これらの祭が守られた。
イエスはベタニヤからふたりの弟子(ペテロとヨハネ(ルカ22:8))を過越の食事の用意のためエルサレムに遣わした。すでにイエスがある男(十二弟子の知らないイエスの無名の弟子)に過越の食事の客間を用意させていた。実に入念で注意深い。
ここから教えられる第一のことは、主イエスは先んじて用意をしておられるということ。だから、主を信頼し、主のおことば通りにやろう。主のおことばは、聖書から知り、祈りを通してより明確にされる。
教えられる第二のことは、主の弟子は実に豊かであるということ。知らない所で、主のほかの弟子が主のために用いられている。自分だけがやっていると思ってはならない。「この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」(ルカ22:15)。イエスは敵に場所を知られ、踏みこまれないようにするため、注意深く、過越の食卓を用意されたのである。それは十二弟子たちのためであった。
教えられる第三のことは、主は霊の食卓を整えて待っておられるということ。聖餐式、主日礼拝、週日の集会、日々の静思の時(デボーション)等々である。いざ、主の食卓へ。

Ⅱ 主の食卓は、私たちの罪が示され、主の悲しみが示される場である
「あなたがたのうちのひとりで、…いっしょに食事をしている者がわたしを裏切ります」(17)。 「いっしょに鉢に浸している者です」(20)。 非常に親しい者が裏切るという厳粛な宣言である。「わざわいです。… 生まれなかった方がよかった」(21)とは、 罪に対する主イエスの悲しみである。「わたしは聖書に書いてあるとおり去って行くが、あなたは裏切ってはならない」。
主イエスはユダを名指して叱責しない。ペテロらが荒れるだろうし、ユダの心もさらにかたくなになるから。主は氷を溶かす陽光ように優しくユダに迫るが、ユダは悔い改めの機会を逃してしまった。ユダ以外の弟子たちも「そんなことはありません」ときっぱり否定できない。不徹底な献身と不信仰への不安を抱いていた。主の食卓は、そういう罪に病む私たちの姿を明らかにする場でもある。
ルカ22:21~23によれば、最後の晩餐の席で主イエスが、弟子たちの一人がご自分を裏切るとお語りになった時、弟子たちは「裏切り者はいったいだれだろう」と他人を吟味した。しかし、むしろ、「イエスに従わず、イエスに反逆する者はこの私ではないか」と自分を吟味し、悔い砕けた心をもって主の聖晩餐に臨むべきである。その時、主の聖晩餐は大いなる祝福となる。
私たちは完璧な者としてキリストの御前に出るのではない。むしろ、「自分は貧しい者、病める者、罪深き者、そして、死せる者として」、「いつくしみ深い贈り主であり、医者であり、義の創始者であり、生かしたもう御方」であられるキリストの御前に出るべきである。ここにキリストへの信仰がある。また、兄弟姉妹を愛したいという願いをもって、キリストの御前に出るのである。それゆえ、「自らのふさわしくないままを(キリストの前に)差し出すことこそ、ふさわしい(主の晩餐の)受け方である」(カルヴァン)。

Ⅲ 主の食卓は罪の赦しと罪への勝利の希望を指し示す場でもある
主イエスはそんな弟子たちに、そして、私たちに、パンとぶどう酒を受け取りなさいと差し出す。
パン、それは主イエスのからだ、- 特に十字架での身代りのために裂かれたおからだ -、また、主イエスの存在全体である。主は私たちに救いと祝福の源であるご自身を与えてくださるのである。
ぶどう酒、それは主イエスの十字架で流された血、新しい契約(エレミヤ31:31~34)を保証するものである。新しい契約においては、完全な罪の赦しと主の臨在(聖霊の内住)が信じる者に約束されている。
「まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(25)。主イエスはご自身の食卓で、御国の希望、そして、主イエスがともに戦っていてくださることを保証する。主は断食、断酒で初志貫徹(使徒23:12参照)、天の王座から地上の教会と聖徒のために苦闘し(コロサイ1:24)、神の国の完成へと全力を尽くしておられるのである。

主の聖晩餐、聖餐、それはすばらしい恵みの場、罪の赦しと永遠のいのちを確認する場、主イエスご自身にあずかり、主との交わりを豊かにする場。私たちはもっともっと大いなる期待をもって、主の食卓に集おうではないか。