礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年4月30日 説教アウトライン】  「天に昇った主イエス」    使徒の働き 1:3~14

「行伝(The Book of Acts)」「使徒行伝」「聖霊行伝」など様々に呼ばれる「使徒の働き」という新約の一書は、正確に言うなら「聖霊により使徒たちを通して継続されるイエスの行いとことば」となろう。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(1:8)。
この主イエスのことばは、私たちへの宣教命令と言うよりも、主の宣教実行宣言である。主イエスが聖霊により使徒たちを通して宣教を行い、神の国を広げ、完成される。宣教は主イエスの働きであり、私たちは光栄にもその主の働きに参与させていただく。
この書には、「エルサレム」(1~7章)、「ユダヤとサマリヤ」(8~9章)、「地の果て」ローマまで(10~28章)の証人たちによる福音の広がりが記録されている。注目すべきは、「すべての道はローマに通ず」と謳われた世界の中心都市ローマを、主イエスが「地の果て」と呼ぶことである。主イエスと弟子たちとが共にいるこの場所こそが世界の中心なのである。いま、主イエスと共にいるこの所、私たち一人一人、私たちの家庭、私たちの教会が、福音が広がり行く世界の中心であり、ここから「地の果て」に証人として向かって行くのである。
伝えられているところでは、ペテロはローマに、ヨハネはエペソに、ヤコブは殉教したエルサレムとその周辺に、アンデレとピリポはともにギリシャに、トマスはインドに、バルトロマイ、マタイ、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員シモン、ヤコブの子ユダはそれぞれペルシャに証人として出て行った。
では、私たちにとっての「地の果て」とは? 地理的な果てというより「自分の限界」ということではないか。神が、主イエスが、イエスの聖霊が私たちの限界を超えさせて、私たちを証人となさる。これは主イエスの、神のご計画であり、約束なのである。

主イエスは昇天された。「天」とは何だろう。「天」は空間的に上の方ということではない。空や宇宙空間ではない。もちろん「天」は上にはちがいないが、空間的な上ではなく、次元的な上である。
主イエスは昇天された。イエスはもはや地上にはおられない。なぜなら、イエスは地上においてなすべきすべてのことを果たされたからである。私たちの救いに必要なすべてのこと(神への従順、十字架、復活)は、イエスがすでにこの地上におられたときに成し遂げてくださったのである。感謝!
主イエスは昇天された。地上にイエスの残業はないからである。残業がなければ家に帰る。イエスも自分の家(御父の御前)に行かれた。天に入り、私たちのために天の入り口を開いてくださった。私たちの前に天が開かれている。感謝!
主イエスは昇天された。イエスは私たちと同じ人性(からだと心)をもって、天に、御父の御前におられる。私たちはイエスにあって「肉体を天において持っている」のである(『ハイデルベルク信仰問答』49)。私たちは「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえら」され、「ともに天のところにすわらせて」いただいたのである(エペソ2:6)。いまや御父の御前に私たちの居場所が確保されている(ヨハネ14:2)。そして、特に、私たちは聖餐において、パンとぶどうの杯にあずかることを通し、聖霊によって、天のイエスのおからだと一つにされ、栄光の御父と対面する。感謝!
主イエスは昇天された。イエスは、いま、御父の御前での私たちの弁護者であられる(Ⅰヨハネ2:1、ローマ8:34)。それゆえ、私たちはイエスの御名で父なる神に大胆に祈ることができる。「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と。「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」(エペソ3:12)。「ですから、私たちは、あわれみをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)。感謝!
主イエスは昇天された。イエスは天の霊的祝福をもって祝福してくださる(エペソ1:3)。イエスは父の御前から、私たちに聖霊とその賜物を注ぎ満たしてくださる(エペソ4:10、使徒2:33)。そして、聖霊によって私たちの思いを天に引き上げてくださる(コロサイ3:1~2)。感謝!

この昇天された主イエスが、天から聖霊を注ぎ遣わされた(使徒2章)。私たちキリスト者はすでに聖霊をいただいている。だから主イエスが言われたこと、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、・・・地の果てにまで、わたしの証人となる」ということは、私たちにもあてはまることである。
「証人」とは何か。自分が知っているイエスを語る人である。だから、私たちはイエスとさらに親しむ必要がある。
「証人」ということばの原語には「殉教者」という意味もある。「証人」とは命賭けで主イエスを語り、証しする者である。ところで、「命賭け」とは、どういうことだろう。時には、本当に自分の生命を犠牲にすることもあるかもしれない。しかし、「命とは時間」でもある。「あと3年の命がある」と言ったら、「あと3年、時間がある」ということであるから、つまり、「命賭け」で証しするとは、自分の時間を相手のためにささげて証しすることとも言えよう。つまり、福音を伝えたい相手のために時間を取って、忍耐をもって、主イエスを語り、また語り、証しし続けることではないか。

昇天された主イエスは天から聖霊を注ぎ遣わされた(使徒2章)。私たちキリスト者はすでに聖霊をいただいている。だから主イエスの証人として生かされるため、聖霊に満たされるよう各自で祈り、共に祈ろう。祈ることは、主の前に頭を垂れ、膝をかがめることだが、別の意味では、人の前にも頭を垂れ、膝をかがめること。伴侶に、親に、子供に、肉親の兄弟姉妹に、霊的家族である教会の兄弟姉妹に、頭を下げて頼む必要がある。「主イエスの証人として生かされるため、主の霊の満たされるように、私のために、私といっしょに祈ってください」と。

「主イェスよ。あなたが私たちを復活の主の証人であると宣言なさいました。あなたが私たちを主の証人として生かされます。感謝します。ですから、私たちは私たち自身をあなたにささげ、ゆだねます。主の聖霊で満たし、あなたの証し人としてさらに活かし用いてください。アーメン。」