礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年4月23日 説教アウトライン】   「復活の主イエスがいつもともに」  マタイの福音書 28:11~20

本日も主イエスの復活を思いたい。復活された主イエス、生ける主イエスに心を向けたい。

イエスの復活とは、どういうことか?
それはイエスの教えや精神が弟子たちの心によみがえり、受け継がれ生き続けたということではない。イエスが仮死状態で葬られ、息を吹き返したということでもない。ユダヤ人宗教指導者が兵士たちに金をやって吹聴させたように、弟子たちが遺体を盗んだということでもない。弟子たちが嘘をついて復活を語ったのでもなく、集団催眠にかかって復活したイエスと出会ったと思い込んだのでもない。
イエスは本当に死んで、墓に葬られ、事実として三日目にからだをもって復活されたのである。主イエスは生きておられる。

ユダヤ宗教指導者たちは、墓を番していた兵士たちの報告を聞き、イエスの復活の事実の隠ぺい工作をした(11~15)。
興味深いのは、祭司長や民の長老たちが、イエスが復活したという驚くべき報告の真偽を確かめようとせず、復活の事実を前提にして協議したことである。彼らもイエスの復活を疑わず、ただその事実を恐れたのである。イエスが復活したことが事実であると人々が知ることになれば、イエスが神の子であることが証明され、神の子を殺した自分たちの罪が明らかになる。人々はイエスをますます信じ、彼らの言うことを聞かなくなる。彼らは自分たちの面子や立場を守り、自分たちの論理を通すため、イエスの復活の事実をもみ消そうとなりふり構わず行動した。敵対者たちがこのように裏工作し、嘘を広めたことは、かえって実際に起きたイエスの復活の事実を証明するものとなっている。

十一人の弟子たちは指示通り(7,10)、ガリラヤに行った。ガリラヤは彼らがイエスと出会い、イエスの弟子として召された原点の地である。イエスの弟子とは何かを、イエスは弟子に原点を再認識させようとしたわけである。
イエスの弟子とは何か。「彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を負い出す権威を持たせるためであった」(マルコ3:14~15)。イエスの弟子は、第一にイエスといっしょに生き、イエスと親しく交わる者。第二に、福音を宣言する者。すなわち、イエスにおいて神の国(神の愛のご支配、神の救い)が来ていることを宣言する者(マルコ1:15、マタイ10:7)。第三に、悪霊を負い出しに代表されるいやしをもたらす愛の奉仕によって、神の国を証しする者である。
復活の主イエスは、ご自身が宇宙規模のあらゆる権威をもっておられることを宣言なさり(18)、続けて、弟子たちに世界大で、「世の終わりまで」(20)続く使命を新たに託し、彼らを派遣された。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(19)と。
それは十一人の弟子たちだけで成し遂げることのできる業ではない。弟子自身がイエスの弟子として生きながら、自分が出会う人をもイエスの弟子として生きるようにしていく。出会う人とともにイエスと交わり、ともに福音を分かち合い、ともに愛をもって仕えながら、自らもイエスの弟子として成熟し、新たなイエスの弟子を生み育てていくのである。バプテスマ(洗礼)による教会への入会、教会共同体におけるイエスの愛の教えを学ぶことは重要で、それらを通して、主イエスの弟子はさらに主イエスの弟子とされていく。こうして、すべての権威を持たれる主イエスが、世界に広がるご自身の弟子の共同体を形づくられる。

すべてのものがイエスを主と告白し、礼拝し、父なる神がほめたたえられるゴール望み見ながら(ピリピ2:10~11)、私たちも主の派遣に喜び従いたい。それぞれに置かれた境遇、与えられた賜物を感謝しながら、ともに心を一つにして、主イエスの弟子として生きていこう。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20)。