礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年4月9日 説教アウトライン】   「見よ、この人を」  ヨハネの福音書 19:1~16

ピラトはユダヤ人たちの前にイエスを引き出し、イエスを指示して、「見よ、この人を」(19:4の直訳)と言った。「見よ、この人を」はラテン語で「エッケ ホモ」。この「エッケ・ホモ」の場面は、しばしば西洋絵画の題材とされ、多くの画家が描いている。
日本を代表する讃美歌は数々あるが、その一つが由木康牧師作詞の「馬槽のなかに」であろう。この賛美も各節に「この人を見よ」と繰り返されている。

「すべてのものを あたえしすえ、
死のほかなにも むくいられで、
十字架の上に あげられつつ、
敵をゆるしし この人を見よ。」(『讃美歌21』280番3節 )

私たちも受難週にあたり、十字架の主イエスに目を注ぎたい。

イエスはゲッセマネの園で逮捕された後、深夜から翌朝にかけて6つの裁判を受けられた。まずユダヤ側で3回。①元大祭司アンナスによる予備尋問(ヨハネ18:13~24)、②大祭司カヤパによるユダヤ議会での深夜の非公式の裁判(マタイ26:57~68)、③カヤパによるユダヤ議会での正式の裁判(同27:1~2)。次にローマ側で3回。①総督ピラトによる予備尋問(ヨハネ18:28~38a)、②ガリラヤの領主ヘロデによる尋問(ルカ23:5~12)、③ピラトによる尋問と正式の裁判(ヨハネ18:38b~19:16)。
ユダヤ議会でユダヤ人指導者たちは、イエスが自分は「神の子キリストである」と主張して自らを神と等しい者とし、神を冒涜したゆえに死刑に当たると判断した(マタイ27:63~66)。しかし、当時、ユダヤはローマの属国であったため、死刑を執行する権限がなかった。それで、ユダヤ人指導者たちはイエスを死刑にするため、イエスのことをローマの総督に告訴した。彼らが主張したイエスの罪状は3つ。①「わが国民を惑わし」、②「カイザルに税金を納めることを禁じ」、③「自分は王キリストだと言っている」(ルカ23:2)こと。①と②は曖昧だが、③は明らかにカイザル(ローマ皇帝)への反逆罪に関する告訴であった。
ピラトはイエスを尋問した。被告はどう見ても王には見えない。イエスはピラトにご自分が王であるとお認めになった。しかし、この世のものではない国の王である(18:33~38a)と。キリストの王国(神の国)は人間の武器によって前進するものではない。ピラトは尋問の結果、イエスがローマに反逆を企て、ローマの統治に脅威を与えるような王ではないと判断し、「私は、あの人には罪を認めません」(18:38)と告げた。四福音書からわかることだが、ピラトは違う状況で5回もイエスの無罪を口にしている。
しかし、ユダヤ人たち、すなわち、宗教指導者たちと彼らに扇動された群衆たちは「うん」と言わなかった。ピラトはユダヤ人たちに譲歩しないときに起こる結果を恐れた。暴動が起こって治安が乱れたら、自分の首が危うくなる。彼はイエスを釈放しようと思った(19:12、ルカ23:20)が、群衆のきげんもとろうと考えた(マルコ15:15)。彼は正義と保身の間で激しく揺り動いていた。結局は彼は神を畏れるのではなく、人を恐れ、わなに陥って行った。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」(箴言29:25)。

ピラトはイエスをむち打ちにした(19:1)。むちの先には金属片や骨のかけらが付いていて、肉をざっくりえぐった。ローマの兵士たちは、イエスにいばらの冠をかぶらせ、紫の衣を着せて、イエスを嘲弄し、ひれ手打ちにした(2~3)。ピラトはイエスを官邸の外に引き出し、イエスの無罪をユダヤ人たちに告知し、見るに値しないほど惨めな姿のイエスを示して、「見よ。この人だ」(5、口語訳)と言った。「いいかげんゆるしてやれよ。この死刑にも値しないような惨めな男を。こんな奴をそれでも死刑にするほど、お前らは女々しいのか!」と。ピラトはこの件をこれで終わりにしたかったのである。しかし、ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫ぶ。そして、ユダヤ人たちの「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません」(12)ということばがピラトにとどめをさした。二人の王のどちらかを選ばなければならない。彼はとうとう正式の裁判の席に着き(13)、イエスを十字架につけるために引き渡した(16)。

地上の権威を越える大きな権威をもっておられるイエスが、地上の権威者による判決にご自身をゆだねた。イエスはすべてを神のご計画にゆだね、こうして、私たちを罪から救う神の計画が成し遂げられた。見よ、この人を!
イエスはいばらの冠をかぶられた。私たちが義の栄冠を受けることができるようにするためである(Ⅱテモテ4:8)。いばらは罪に対する神ののろいの象徴である(創世記3:18)。罪に対する神ののろいはすべて、イエスの頭上に置かれた。イエスが私たちにかわって、罪に対する神ののろいをすべて負い、十字架でさばきを受けてくださった。それゆえ、罪に対するのろいは過ぎ去り、イエスにあって私たちは赦され、義の栄冠を賜るのである。私たちを愛し、私たちの救いのために、ご自身のすべてをささげてくださった十字架の主イエスを仰ぎたい。見よ、この人を!
主イエスは十字架で死んで墓に葬られたが、三日目に死を滅ぼし、死人の中から復活して、天の御父の元にあげられ、栄光の座に着かれたが、天から聖霊をお遣わしになり、聖霊において私たちとともに生きてくださる。十字架で徹底的にご自身を与えてくださった主イエスは、今も、聖霊においてご自分のすべてを私たちに与え、困難にあえぐ私たちをその身に負いながら、私たちを永遠のいのちに活かしてくださるのである。見よ、この人を!