礼拝説教 遠藤 潔 牧師


【2017年4月2日 説教アウトライン】   「香油を注ぐ」  マルコの福音書 14:1~11 

早春、過越の大祭の直前のこと。ユダヤの宗教指導者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺そうと懸命に思案し(1-2)、イスカリオテ・ユダは、イエスを彼らに売ろうと考え、実行に移した(10~11)。そのような状況の中でのマリヤのイエスへの香油注ぎの行為は、いっそうかぐわしく感ぜられる。

Ⅰ マリヤの香油注ぎと彼女に対する反応
「ひとりの女」(3)は、イエスと親しいベタニヤのマルタとラザロの姉妹「マリヤ」(ヨハネ12:3)である。彼女は食卓のイエスの頭に「純粋で、非常に高価な」(3)ナルドの香油「300グラム」(ヨハネ12:3)を惜しげもなく注いだ。主の頭にも、「足」にも(ヨハネ12:3)。家は香油の香でいっぱいになり(ヨハネ12:3)、その香は十字架と墓へと向かうイエスの衣服と身体にも染みついた。
マリヤは十字架に向かうイエスの表情や姿の中に苦悩を敏感に感じ取り、何かをさせていただきたいと心の中から突き上げる思いに迫られ、嫁入りのために買い蓄えられていた女の命とも言うべき香油すべてをイエスに注いだ。
彼女の行為に対する何人かの反応は、「むだ」なことをした、という評価。彼らは女をきびしく責めた(4~5)。300デナリ以上に売って、施しにすればよかった、と。300デナリは、300日分の賃金、ローマの兵士の1年分の給与に相当するほどの高額である。
それに対して、イエスの反応は、「わたしのために、りっぱなことをしてくれた」(6)という評価。「りっぱ」と言って、彼女をおほめになった。

Ⅱ イスカリオテ・ユダのイエスへの態度
「むだ」と言って責めた張本人は、イスカリオテ・ユダであった(ヨハネ12:4)。他の弟子たちも彼につられて同調した。ユダについて福音書記者ヨハネは記す。「彼は貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(ヨハネ12:6)と。
ユダは、イエスから与えられた特権にあぐらをかいていた。十二弟子、会計係という特権に。
ユダは、イエスから与えられた使命と責任に不誠実であった。金銭着服の罪を犯していた。
ユダは、打算的で、イエスとその力を自分の思惑や目的のために利用しようとしていた。イエスは自分の名誉欲、物欲、権力欲を満たすための手段。しかし、ユダは、この世的、政治的メシヤだと思って従っていたイエスに失望。銀貨30枚(120デナリ)でイエスを売り渡してしまう。金を残してイエスのもとを去るならまだ潔いが、彼はイエスを裏切る時も打算に走り、金儲けをした。
その挙句、彼は自らの命を絶つという悲しい破局を迎えることになる(マタイ27:5)。

Ⅲ マリヤのイエスへの「りっぱ」な態度と行ない。福音にふさわしい応答
マリヤは、主イエスに対する湧いてほとばしる愛によって、女の命である「純粋で、高価な」香油を惜しげもなく主イエスに注いだ。これは打算的でない、全人格を注ぎ出す愛、「純粋で、高価な」愛である。
なすべきことはたくさんあるが、マリヤは、今でしかできないことをイエスに対して行った(7)。マリヤは「自分にできること」、そして、「できる限りの事」(口語訳、文語訳、新共同訳)をしたのである(8)。
思ってもみなかったすばらしい効果と結果があった。① マリヤの態度をイエスがとびきり喜んでくださった。そして、十字架へと向かい、十字架で苦しみ、そこで最期を遂げるイエスの気持ちを和ませる効果もあっただろう ② イエスの埋葬の用意になった ③ 福音にふさわしい行為、すなわち、福音への応答としてのふさわしい行為として、代々に伝えられ記念されることになった。
マリヤのこのような態度は、なぜ生まれてきたのだろうか? それは、彼女が個人的に「主の足もとにすわって、みことばに聞き入」(ルカ10:39)り、「すぐに…イエスのところに行」く(ヨハネ11:28~29)であったからである。すなわち、彼女は主イェスとの親しい交わりの中にあったのである。「マリヤはその良い方を選んだのです」(ルカ10:42)
マリヤは福音にふさわしい応答としてこの行為を主にささげたのである。福音とは、神が私たちに注いでくださった「純粋で、高価な」愛である。「純粋」とは、打算がない、見返りを求めないということである。神は何も見返りを求めてはいない。ただ愛するがゆえに私たちに良きことをなしてくださるのである。「高価」なとは、まさに全存在をかけ、命懸けのということである。
神は、罪人である私たちが罪の中に滅びないように、私たちに「純粋な」愛を向けられた。本当に「高価な」御子イエス・キリストを私たちに与え、十字架につけて身代わりの犠牲とし、私たちの罪をイエスにおいておさばきになった。そして、イエスを永遠のいのちによみがえらせてくださった。そして、イエスにおいて、罪の赦しと永遠のいのちを用意してくださった。イエスを信じるならば、イエスににあって、無条件に、無制限に罪の赦しを受け、永遠のいのちに生きることができる。神はこのイエスを、聖霊において、日々、私たちに差し出していてくださる。イエスにある罪の赦しと永遠のいのちは日々私たちに与えられている。このすばらしい知らせこそ福音である。
この福音は、イエス・キリストにある神の「純粋で、高価な」愛を如実に表わしている。私たちが神に何もお返しできなくても、純粋で高価な愛の贈りものイエス・キリストにあって、神の愛は無限に注がれている。こちらの対応に応じて神の愛は多くなったり、少なくなったりしない。
だから、この福音に示された神の「純粋で、高価な」愛をいっぱいに注がれ、受けとめるとき、マリヤのような純粋で、打算のない応答が自ずと湧き出してくる。

マリヤのようにイエスの足元にすわろう。イエスと交わろう。十字架と復活のイエスを見上げよう。そこから注がれてくる神の純粋で高価な愛を味わおう。そのとき、神への、また、主イエスへの純粋な愛は私たちのうちから湧き出してくる。そして、神の喜びがいよいよ心にあふれ、自分を主の前に日々新たにささげていく。